FC2ブログ

中村支藩の成立と断絶

10月28日、県立高知城歴史博物館館長 渡部淳氏 による講演会「中村支藩の成立と断絶 -内分支藩の問題を中心に- 」(主催:西南四国歴史文化研究会中村支部)に参加した。

土佐藩の中における中村藩の位置づけはどうだったのか、以前からよくわからなかったが、講演をきいてある程度わかってきた。

中村藩は土佐藩成立と同時に、山内一豊から弟康豊に分け与えられた。最初2万石であったが、2代目政豊に子がなかったことからいったん途絶える。まもなく3万石として復活したが、これも3代目豊明(大膳)にして、元禄2年(1689)、将軍綱吉から改易された。

中村藩は山内家の「内分分家」という位置づけ。「内分分家」とは、幕府が承認した独立した藩として参勤交代などが義務付けられているが、幕府からの指示命令は本家(土佐藩)を通じて行う、というもの。要は、本藩から独立半分・従属半分という中途半端な存在。

5代将軍綱吉は特殊な政権であった。いったん要職に登用したうえで突然改易された藩が多い。中村藩がその典型。若年寄に登用された豊明がそれを辞退したことで綱吉の怒りを買い改易。

家臣は散り散りに。町も解体された。土居屋敷46軒、侍屋敷68軒は石垣までも取り壊された。以降、中村には代官所が置かれ、本来の武士は消え(郷士、地下浪人などに)、転勤武士が交代で来るだけになった。

中村藩廃絶後、幕府は領地を取り上げた。年貢も幕府へ。しかし、土佐藩はこれに不服で、中村領地は内分分家であるから土佐藩に属していることを認めさせようと懇意の老中などを介して必死の根回しをおこなった。その結果、元禄9年、中村領が最終的に土佐藩に返還される。

中村藩の改易については、本藩の陰謀によるものという説をきいたことがあるが、決してそうではなく、幕府に没収され土佐一円支配が崩れてしまうかもしれないということで、本藩にとっても一大事であったのだ。

中村藩の改易により、中村の町は文字通り町人の町になった。家老伊賀家が治め続けた宿毛との違いはここにある。

ちなみに、中村で録を失った家臣の一人が江戸仕置役であった安岡久左衛門であり、間崎で郷士になった。実態は百姓と同じである。その子孫が安岡良亮(初代熊本県令)である。

時は流れ、維新後は

自由党(民権派)の拠点となった宿毛。
国民党(保守派)の牙城となった中村。

中村では町民文化の流れの中で、平民の中から幸徳秋水が生まれた。

その起点は中村藩の断絶にある。
このあたりのストーリーをもっと深め、筋立ててみたい。

 20171031085608ba2.jpg


 

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR