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遠近鶴鳴

いま遠近鶴鳴について考えている。中村町民文化の祖として。

中村を支配したのは、一條家100年のあと長宗我を経て山内に移る。土佐に入った山内一豊は、中村だけは独立した中村藩2万石(のち3万石)として弟康豊に分け与えた。

しかし、元禄2年、中村藩は5代直久の時、将軍綱吉の命で取り潰しになり、のちに本藩(土佐藩)に吸収される。家臣は録を失い、散り散りになり、中村土着の武士はいなくなる。

土佐藩直轄の代官所が置かれ、わずかに転勤族の武士が高知から赴任するくらい。ほかには、一応広い意味の武士には分類されるが普段は百姓と同じ郷士。中村は町民中心の町になった。

士農工商の身分制度が定着してきたこの時代、学問は武士がするものであった。
しかし、中村には武士はいなくなった。

中村には、一條家が京からもたらした学問風土があった。これを受け継いだのは、中村の商人たちであった。

遠近鶴鳴は、寛政7年(1795)、中村の有力商家宇和屋に生まれた。商売の仕入れなどで京大阪に出たさい、学問を学んできた。大阪の篠崎小竹、京都の岩垣松苗などから、朱子学、国史国学を。

そして地元に私塾鶴鳴堂を開き、多くの門弟を育てた。門弟には、樋口真吉、安岡良亮などがいる。真吉は足軽、良亮は郷士。少し若い商家吹田屋の木戸明はこの二人から学んだ。

さらに木戸明から学んだのが商家俵屋の幸徳秋水。同世代の藤倉忠吉(民権家から中村町長に)も商家堺屋であった。

秋水の場合は少し複雑で、幸徳家は商家だが、母多治の出里小野家は一応武士(郷士)であった。当時としては、めずらしい縁組であった。

安岡良亮の母も同じ小野家(多治の伯母)であることから、良亮と多治は従兄妹であった。

秋水の親戚は商家と武家が混在しているが、学問的薫陶を受けたのは、母方の親戚のほうからである。

郷士と有力商家とは実質的にはそう大きな身分差はないのだろうが、それでも郷士は武士である。

秋水が一緒に遊び、学問も学んだ親戚の子どもたちは武士が多かったのに自分は商家。

秋水が、のちに平民社、平民新聞と「平民」にこだわったのには、このような背景があったのでは。

一條時代からの学問の受け皿となり、発展させたのは遠近鶴鳴を筆頭に中村商人であった。だから、俵屋の秋水もその流れを受け、木戸明の遊焉義塾に通った。

しかし、一方には武士(郷士)もいた。そうした複雑な学問風土の中で幸徳秋水が生まれたといえるのではないだろうか。

遠近鶴鳴は天保15年(1844)没。
墓は中村羽生山にある。

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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