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土佐一條550年

今年は、前の関白一條教房が応仁2年(1468)、中村に下向してきてから550年になる。

教房は摂関家である一條家のトップ。父は大学者と言われた兼良。
摂関家とは天皇家とも婚姻を結び、摂政関白を出すなど、政治の中枢に君臨する有力公家であり、五家(ほかに、二條、九条、近衛、鷹司)だけであった。

関白は、いまでいえば総理大臣。
そんな大物が中村にやってきたきっかけは、京都を戦場として前年に始まった応仁の乱。京都は炎上し、御所に隣接する一條家屋敷も燃え落ちた。

教房は弟がいる奈良興福寺にいったん避難したが、翌年、家人を引き連れて、堺から船で中村をめざした。中村周辺は一條家の荘園、幡多の荘であったからだ。

教房が中村までやってきたことについては諸説あるが、戦火をのがれるためであったことは間違いがない。都が戦場にならなければ、わざわざ僻遠の中村まで来ることはなかったろう。

しかし、理由はそれだけではなかった。戦乱が終結してからも京都には帰らなかったことでわかる。

教房は一條家を分家し、新たに土佐一條家を立て、息子の房家に継がせた。

中村を気に入ったのだろうか。それもあるだろうが、地元国人たちに荒らされようとしていた幡多の荘を直接管理(直務支配)することで、京都本家の再興を助ける道を選んだのだ。

中村に骨を埋める覚悟をした教房、房家親子は、中村のまちづくりに励んだ。モデルにしたのは当然京都。

以来、土佐一條家は、当時としてはめずらしい公家出身の戦国武将(公家大名)として、房冬、房基、兼定と、100年続く。

いま、全国には、「小京都」を名乗るまちはたくさんあるが、その本家本元が中村であると言われる所以はこんなところにある。

そんな由緒ある中村市は2005年合併で市の名前こそ変わってしまったが、もちろん中村のまちは中村のままである。

四万十市では、今年いっぱい市をあげて「土佐の小京都中村550年祭」を行います。

四万十市は四万十川だけではありません。
ぜひ、みなさんお出でいただき、「公家がつくったまち」の歴史と文化を堪能してください。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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