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安岡良亮の息子たち(1)

明治九年十月、初代熊本県令(知事)安岡良亮は不平士族神風連の斬り込みにあい殉職した。五十二歳。

良亮と東京に残っていた妻千賀(桑原義敬娘)の間には八人(男三、女五)の子がいた。千賀は翌年、まだ幼い秀夫ら下の子を連れて、中村に帰ってきたことは前号(本ブログ 2017.1.6~1.12)に書いた。

長男雄吉(おきち)は安政三年中村生まれ。当時二十歳、慶應義塾に学んでいた。その経歴等は三田商業研究会編「慶應義塾出身者名流列伝」(明治四十二年)、片岡仁泉編「近代土佐人」(大正三年)に載っている。

安岡雄吉は明治十一年ごろから内務省、元老院、東京府庁などに宮仕えしたが、わずか五年で辞め、「隠遁的生活」に入り、「専ら読書に耽る」。

ところが、明治二十三年国会開設を前に後藤象二郎が自由党分裂各派に大同団結運動を呼びかけると、その幹部として名乗りをあげ、機関誌「政論」で政府攻撃を繰り返す。ついには新聞条例にひっかけられ、裁判で禁固刑の処分を受けるが、憲法発布の大赦により刑執行は免れた。

しかし、政府の懐柔策で後藤が突然入閣したことにより運動は挫折。雄吉は明治二十五年、第二回帝国議会選挙高知第二選挙区(幡多郡など)に国民党(吏党)から出馬した。

選挙は政府の大干渉が行われ、自由党との抗争は激烈を極めた。結果、雄吉はいったん片岡直温とともに当選したが、陣営側の選挙違反裁判(票操作)に問われ、林有造、片岡健吉の自由党に敗れた。

再び読書生活に入ったが、明治三十年から二年間は英国留学し、欧州各国も視察。帰国直後には、母校慶應で帰朝演説会「べレスフオード卿の演説に就て」(他国同盟への意見)を求められた。演説録は慶応義塾学報(12号)所収。同学報(61号)には論文「宗教局外観」(宗教の自由を訴え)も寄せている。

明治三十五年、東京より選挙出馬したが、落選。しかし、二年後日露戦争開戦の年、再び高知から出馬し、今度は当選している。

この選挙の運動費明細が残されており、日当を支払った先に中村の幸徳駒太郎(秋水義兄)の名前がある。駒太郎は当然ながら親戚にあたる雄吉を応援したのだ。

雄吉は盲腸炎を患ったことから明治四十一年次期選挙は断念し、神奈川県藤沢市片瀬に百姓家を求め、またも隠遁。その年、秋水がこの家を訪ね中村の小野英(雄吉姉)に報告した手紙が「秋水全集」書簡集に収録されており、その中で「雄吉兄」と一緒に「おばアさん」(良亮妻千賀、翌年没)も杖をつきながら見送ってくれたと書いている。

その後、雄吉は二度目の洋行、また満州へも行っているが、世間との交渉を疎い、酒を友に学者的生活を続けた。

大正九年、六十二歳で没。執筆の準備をしていた「後藤象二郎伝」を仕上げることができないままに。

互いの父の代から深い縁(前号で書いた)があった尾崎咢堂(行雄)からは弔意の手紙が届いた。尾崎は慶應後輩で、雄吉から明治十二年、借金百円をしていた証文が残っている。良亮殉職に対し政府から弔慰金が千円(吊祭料三百円、家族扶助料七百円)出ていることから、その一部を回したのかもしれない。

雄吉妻は神奈川県士族出。末裔は長男隆司―篤夫―由恵と続き、いまは横浜在。今回、所蔵の貴重な資料を見せていただいた。雄吉家墓は藤沢市片瀬泉蔵寺にある。

続く

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「 安岡良亮とその一族 (下) 雄吉、秀夫、英 」

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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