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安岡良亮の息子たち(2)

雄吉と三男秀夫の間に儁次郎(しゅんじろう)がいたことはあまり知られていない。記録(写真も)がほとんど残っていないためであろう。

小野英の娘岡崎輝(筆名丘佐喜子)が「南国新聞」(中村で発行、昭和四十三年三月二十一日付)に寄せた連載「続わがふるさと(27)」には「次男儁次郎は俊秀な頭脳と秀麗な容貌の持主だったが札幌農学校を卒り学習院に勤務したが二十四歳で病死した」と書いている。また、「農学士」「学習院教授」「未来ノ大臣ト云ワレタ人」と書かれた記録(メモ)も上岡正五郎先生調査資料に綴られている。

札幌農学校卒業生名簿で明治十八年本科五期卒業生十二名の中に儁次郎の名前を確認できる。しかし、生年、没年、墓も不詳である。

三男秀夫は明治五年東京生。父の遭難により、母と中村に帰ってきてからは一歳上の秋水と兄弟同然に遊んだ。

明治十八年、ともに通学していた中村中学が突然廃校になり高知中学に統合されたさい、秋水は家の経済事情もあり、すぐには高知に転校できなかったが、秀夫はそのまま高知に出た。その後、慶應義塾に入る。兄同様経歴が前掲「慶應名流列伝」に出ている。沢翠峰・尾崎吸江共著「良い国良い人 東京における土佐人」(大正六年)にも。

秀夫は明治二十六年、時事新報社に入る。同社は福沢諭吉経営、戦前の五大紙に数えられていた大新聞(現在のサンケイ新聞につながる)であった。

秀夫は終始一貫、社の方針に従った穏健な論説記者であった。「風采温順」「言語柔和」

得意分野は外交、特に支那問題。論文「支那の六国借款」「支那全権は何を為すべきか」のほか、単行本「日本と支那と」「小説から見た支那の民族性」を出版している。

その主張は、大陸進出を図る日本を後押し、その論理的支柱になるような内容である。

中学生向け月刊雑誌「少年」には、日露開戦の明治三十七年から大正十年まで十七年間、「時事解説」を執筆。日露戦については、詳しい戦況記事となっている。ただし、明治四十三~四十四年に名前がみえないのは、秋水が大逆事件の渦中にあったことから筆を自粛したものと思われる。

大正元年、雑誌「奉公」には、南米訪問記(時事新報特派員、軍艦生駒に乗り南米から欧州へ)を載せている。

秀夫の妻は土佐出身政治家甲藤大器の娘。甲藤は後藤象二郎の大同団結運動に参加し、兄雄吉とともに「政論」で筆をふるった人。

秀夫末裔は隼太―保直まではわかるが、以降不詳。秀夫没年も不詳。墓は東京多磨霊園にあるというメモがあり、種々調べたが、場所を特定するには至っていない。

兄弟姉妹で一番上の長女芳は母千賀の出里桑原の長男戒平(母の兄義厚の子、従兄)に嫁した。戒平は良亮と一緒に維新東征に参加し、官に入る。夫婦で熊本に帯同したが、神風の乱では難を免れた。

戒平はその後中村に帰り父のあと幡多郡長を務めたが、田ノ口銅山事業に失敗。中村を出て、東京豊島郡長、小笠原島々司、台湾新竹支庁長などを務めた。晩年は鎌倉に隠棲し、樋口真吉伝を書いた。墓は鎌倉。

次女英(ふさ)は、幼いころ男なればと惜しまれた。小野道一(従兄)に嫁す。道一は桑原戒平の実弟で、秋水母多治の父小野雲了の養子となり、小野家を継いでいた。

道一はかつて谷干城に従い上京。大学南校で法律を学び、三潴県(福岡)警察部長、鹿児島県判事、三重県警察部長を務めたあと帰郷。幡多郡長、さらに高知県会議員、議長にも就いたが、兄事業失敗の責めを負い、議員辞職を余儀なくされ、明治二十三年一家で上京。新聞社、郵便局などに務めたが、明治二十八年自死。英は自力で生きるため、娘二人を連れ、房州(千葉県館山)で教員となった。

英は明治三十八年、帰郷に合わせて中村に設立された幼稚園の園長に迎えられた。幼稚園はその後町立に移行。高知県における幼児教育のさきがけとなった。晩年「八拾余年の思出」を書き残している。昭和十二年、八十七歳で没。夫婦墓は太平寺にあったが、今は撤去。

三女(結)、四女(玖摩)、五女(伊勢)については、特記すべきことはない。

続く

「文芸はた」3号 2017年12月発行 所収
原題「 安岡良亮とその一族(下) 雄吉 秀夫 英 」

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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