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上海列車事故

母校高知学芸高校の修学旅行生徒たちが中国上海で列車事故に遭い28人(うち1人は教員)が亡くなってから、きょうで30年を迎えた。

1988年(昭和63年)3月24日。その日私は東京にいた。報道で聞いた時、にわかには信じられなかった。なぜ、中国へ? 本当に母校なのか? 間違いだろう? 当時海外への修学旅行はほとんどなかった。(私の代は関東組と北陸組に分かれて行った。)

修学旅行事故は国民の涙を誘った。前途有為の若者の不慮の死として連日大々的に報道された。

遺体が特別機で高知空港に帰ってくる模様はテレビ中継で放送された。私は目をぬぐいながら見た。中村市出身の生徒も2人いた。うち1人は私と同じ八束の女の子であった。

思わぬ悲しい事故で母校の名が有名になってしまった。

母校は高知大学付属高校設立運動を受け継いだ私立高校として昭和32年設立された。私はその12期生であったぐらいだから、歴史も浅く、また土佐高校に追いつけ追い越せというような受験重視教育であったため、進学校特有の冷めた雰囲気もあり、当時卒業生のまとまりは強くなかった。同窓会組織も地元ぐらいにしかなかった。

そんな中、事故の衝撃は大きかった。眠っていた卒業生の母校意識がにわかに目覚め、母校を救えと、多額の義援金(カンパ)が続々集まった。私も東京在住の同級生に呼びかけ送金した。卒業生の結束力は、瞬く間に同窓会関東支部結成につながり、全国・県内各地にも波及した。

しかし、学校側は事故処理に悶え苦しんだ。生徒遺族から学校の責任を問う訴訟がおこされた。その年が学校初めての海外修学旅行であったにもかかわらず、事前の下見などの準備が十分でなかったことが明らかにされた。批判の矢面に立たされた校長は、私のころは英語教師であった。

遺族の一部とはいまだに和解がなされないまま。学校側は事故の責任を回避し、遺族への説明責任を果たしていないと。きょうの高知新聞投書欄にも、またその声が掲載されている。不信は不信を増幅させ続ける。

学校は正門前に建てた慰霊碑の前でこの日毎年追悼式を行っている。きょうも大きく、報道されている。しかし、碑には刻まれていない生徒の名前がある。

なぜ、こうなってしまったのか。

学校は重い十字架を背負い続ける。
卒業生もだ。

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言及されておられます女子生徒の方(以下、Cさんとさせていただきます)、ちょっとしたご縁があり僅かながら存じている方でした。

Cさんは高校の生徒会役員に選ばれるなど、とても優秀で積極的な生徒さんだったみたいです。

亡くなられた先生、生徒さんたちは前の車両に押し潰されたため、ご遺体に酷い傷を負われた方も多かったようです。その中でも男子生徒2名と女子生徒1名は損傷が激しく、上海で荼毘に付されましたが、その女子生徒がCさんでした。

せめてもの幸いでお顔は綺麗だったと聞きます。冷たい安置室で、もう目も口も開くことのない愛娘の顔を、血に染まった制服を目の当たりにしたご両親のお心はいかばかりだったのか、30年を経た今でも心が張り裂けそうになります。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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