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幸徳秋水顕彰運動の歴史(上)

現在の名称の幸徳秋水を顕彰する会が結成されたのは二〇〇〇年三月。しかし、その前史は長く、かつ深い。

1.前史一 秋水墓前祭

 一九一一年、大逆事件で処刑された幸徳秋水は、長く「極悪人」「国賊」「逆徒」として社会から抹殺されてきたが、日本敗戦後は一転革命児としてヒーローとなった。

玉音放送からわずか四カ月後、一九四五年十二月末から翌一月初めにかけて、大相撲横綱双葉山一行が高知県内九カ所で「戦災者援護海外同胞救済義捐興行」を行った。主催は高知県労働組合協議会、後援高知新聞社。

中村では、一月一、二日、「幸徳秋水三十五年忌追善興行」と銘打つほどであった。

こうした雰囲気の中、幸徳家当主富治(秋水義兄駒太郎長男)は、四六年一月二十四日の秋水命日(刑死日)、親類縁者等を集め秋水墓前供養(中村正福寺)を堂々と行った。

のちに秋水研究者となる東大生塩田庄兵衛はこれに参加。歓迎を受け、にぎやかな宴会であったと書き残している。
 
墓前供養は、五〇年からは「秋水墓前祭」として幡多地区全労働組合協議会(全労協)主催に、さらに中村地区労へと、労働組合の主要な年中行事と位置づけられた。

2.前史二 再審請求支援運動

大逆事件では二十四名死刑判決、うち十二名は無期懲役に。その一人、室戸生まれの坂本清馬は入獄二十四年間を経て、師秋水を慕って中村に戦中移り住んでいた。

六〇年墓前祭は「幸徳秋水五十年記念祭」として、森山正中村市長(初代)を会長、坂本清馬を事務局長とする実行委員会を組織して行われた。記念講演会はタカクラテル、岩佐作太郎、神崎清、塩田庄兵衛。会場の中央劇場は人であふれた。

 
無実を叫び続けてきた清馬はこの年、唯一人の事件生き残りとして、岡山の森近運平妹栄子とともに、再審請求に立ち上がる。
 
日米安保条約改定反対運動のうねりの中、東京では裁判を支援する組織「大逆事件の真実をあきらかにする会」が結成され、弁護士のほか多くの文化人(高知県出身田宮虎彦、田岡典夫、上林暁も)、社会運動家などが集まった。会長はおかず、実質的な代表の事務局長には参議院議員坂本昭(のち高知市長)が就いた。

 
再審請求は六五年、証拠不十分として東京高裁が棄却、最高裁への特別抗告も退けられたが、事件の風化を防ぎ、真相が広く知られ、いまなお解明が深められている引き金になったことの意義は大きかった。

 「あきらかにする会」はいまも存続、毎年機関誌も発行(最新五十七号)。現事務局長(四代目)山泉進明治大学教授は中村出身で当顕彰会とは常に連携している。

 七一年、刑死六十年墓前祭。秋水遺墨遺品展示。記念講演、大河内一男、神近市子。
 七五年、坂本清馬没(九十二歳)
 八一年、刑死七十年墓前祭。記念講演、塩田庄兵衛、大原慧。
 八二年、幸徳家先祖墓(享保年間以前)を大阪市竹林寺から移転。
 八三年、秋水絶筆石碑建立。
 九一年、刑死八十年墓前祭。記念講演、山泉進、伊藤和則。

高知市立自由民権記念館が九〇年開館後は、同友の会からの墓前祭への参加・交流が続いている。

3.前史三 幸徳秋水研究会

九六年二月、それまでの労働組合による年一回墓前祭中心の取り組みから、日常的な学習により秋水の正しい理解者を増やしていこうと幸徳秋水研究会を立ち上げた。最初二カ月ごと、現在は毎月、いろんなテーマで勉強会を続けている。

九七年、秋水妻師岡千代子が書いた「風々雨々」復刻版を出版(序文瀬戸内寂聴、改題山泉進)。九八年、初期社会主義研究会メンバー十六名を迎え合同勉強会。同年から機関誌「会報秋水」発行。

また、市に対して、毎年夏開かれる市民大学では秋水関連テーマを優先して設定するように申し入れ、以後多数の講演が実現している。 (続く)

 「土佐史談」267号 2018年3月
 原題 「グループだより 幸徳秋水を顕彰する会」

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  幸徳秋水50年祭(1960年)
   手を合わせるのは幸徳富治
  

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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