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満蒙開拓青少年義勇軍(2)

満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の所長は加藤完治であった。加藤は国に対して満蒙開拓をいち早く提言し、「満蒙開拓の父」と言われた人物である。

資料館の係の女性から、近くに加藤完治の息子さんが健在だという話をきいた。まさかと思った。自宅には私設の資料館をつくっているという。

ぜひにと思い、連絡をとってもらうと、見せてもらえるというので、訪ねた。

自宅は、日本農業実践学園の農園の一角の林の中にあった。加藤弥進彦さんといって、完治の四男にあたるという。大正10年生まれの96歳とご高齢で、足が少しご不自由そうだが、かくしゃくとしておられた。

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ひげをたくわえ、オーラをただよわせたお顔は、完治そっくり。学園の名誉校長さんだった。

私の農林中央金庫時代の同僚に加藤完治の孫がいたので、その話をすると、それは自分の息子だとのことで、お互いびっくり、奥様ともども歓迎を受けた。

建物は完治の教え子たちが書斎として寄贈したものだそうだが、いまは自宅兼資料室として使われていた。

玄関には完治が昭和42年、83歳で没する寸前まで使っていたという大きな鍬が置いてあった。持つとズシリと重い。農本主義者の象徴だ。

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畳の部屋三つに完治の資料がびっしり展示されていた。生い立ち(明治17年、東京)からの年譜、写真、書、机など。同志であった石原莞爾将軍(陸軍)、石黒忠篤(農林大臣)などの書、手紙なども。石黒は農林中央金庫の前身産業組合中央金庫の理事長も務めている。

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完治は満蒙開拓のカリスマ的存在であった。

私が最も知りたかったのは、悲惨な結末に終わった満蒙開拓を完治は敗戦時どうみていたのか、その姿である。

完治は呆然自失の状態であったという。

弥進彦さんは学徒出陣組(海軍)。高知で終戦を迎え(これも驚いた)、家に戻ると、父は畳に頭をすりつけるようにして、天皇の詔勅を筆で書き写していたという。「帰ったか」とだけ言って、何枚も何枚も。必死の形相で。

昭和2年、完治は国の全面支援をえて、農業青年育成教育を目的とした日本国民高等学校を茨城県友部に設立。同10年、ここ内原に移転。いまの日本農業実践学園の前身だ。

昭和12年、自らが提言した満蒙開拓青少年義勇軍構想が国に認められ、同訓練所を学校に隣接してつくる。以後は、訓練所のほうが主体になる。満蒙開拓に邁進する。(続く)

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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