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坂本清馬の中村

大逆事件最後の生き証人坂本清馬は、中村で一九七五年一月一五日、八九歳で没。

墓は三年後、秋水が眠る正福寺幸徳家墓の同じ並び、裁判所壁際に、大逆事件の真実をあきらかにする会、中村地区労働組合協議会、坂本清馬翁を追悼する会の三者によって建てられた。

清馬は一八八五年、母の実家室戸市で生まれた。坂本は母芳の姓。父岡村幸三郎は中村生まれの紺屋職人で、二人は高知市で知り合ったとされているが、両家の墓の所在、親類縁者の消息等は不明。清馬も口にしなかったという。

清馬は獄中二五年を経て、いろんな仕事を転々としたが、最終的には戦中、中村に落ち着く。

中村では敗戦の翌年一月二四日から秋水墓前供養(法要)が始まる。最初は幸徳家行事として富治(駒太郎長男)が主催したものだが、中村に清馬がいたからこそ早々に実現したものである。

清馬の性格は生来、直情径行、激情型で、秋水への接近・断絶がそうであった。無実を叫び続け、獄中から司法大臣に上申書を出すほど。人間不信から、性格は一層歪められ、ますます狷介、巌窟王の形相に。仮出獄も一番遅れた。

戦後まもなく、独自の「日本皇国憲法草案」を発表。革命研究にも熱心で、新生中国、毛沢東に関心を持ち、日中友好協会中村支部を結成。

公民館建設、結核療養所(のちの県立西南病院)誘致などの「住民運動」にも取り組んだが、周りと一緒にというよりも独断専行面が強かった。

中村町議会補欠選挙では上がったが、本選では落ちたことに、それが表れている。清馬は一般市民にとって「むずかしい」「こわい」「変わった」人であった。

一九六〇年、秋水五十年祭では実行委員会事務局長を務め(会長は市長)、盛り上がりをみせ、これをステップ再審請求に立ち上がる。

東京には裁判支援組織、大逆事件の真実をあきらかにする会ができた。中村地区労など地元団体政党等も「中村市大逆事件の真実をあきらかにする会」の名前で、全面支援した。

しかし、再審運動は順調に進んだ訳ではない。清馬の強烈な個性から、何度もぶつかった。森長英三郎弁護士たちも手を焼き、なだめすかしながらであった。

地元の活動家たちもだんだんと清馬を避けるようになる。「大逆事件生き証人」「闘う人」としては認めても、目の前の「人間」としては受け容れられない。地元で清馬と親身に付き合う者、理解者は限られてくる。経済基盤をもたない清馬は、一部の人たちに支えられた。愛犬の黒い犬とともに。

清馬は死後もずっと師秋水の陰の存在であった。墓には看板もなく、清馬がすぐそばに眠っていることに気づく者は少なかった。
没四〇年の二〇一五年、はじめて秋水との合同墓前祭とし(以後五年毎)、命日(秋水より九日早い)には有志で墓前供養を始めた。二〇一七年には、墓地入口看板を秋水・清馬連名とし、清馬説明板も設置した。

秋水は処刑され名を残した。清馬は最後まで闘い続けたが、地元でも名前は忘れかけられている。

幸徳秋水を顕彰する会は秋水だけの会ではない。「門人清馬」(清馬の言葉)を含む、いや大逆事件で「いけにえ」にされた人たち、さらには不当な人権弾圧で犠牲になった人たちすべての「呻き」を広く伝える会であらなければならないと思う。


 管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会
 機関誌 20号 2018年6月 掲載

坂本清馬

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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