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中か 中村か

中村市は平成十七年(二〇〇五)、西土佐村と合併し四万十市となり、自治体名称(行政名)は変わったが、中村駅、中村高校、中村税務署などはそのままであるように、当然ながら、市の中心部の地名呼称としての中村は不変である。
しかし、かつて当該地名が「中」なのか「中村」なのかという、大議論があった。


  中村から中村町へ

慶応から明治への改元を経て、新政府は明治四年(一八八一)廃藩置県を断行。地方制度は種々改変されるが、明治二十一年発布、同二十二年(一八八九)四月一日施行の市制・町村制によって確立された。

高知県下は、高知市以外は百九十一村に、うち幡多郡は三十六村に編成された。この時、「中村」も誕生した。

中村にはかつて幡多荘を支配する一條家御所が置かれ、また明治二十四年、幡多郡庁も置かれ、名実ともに幡多の中心地であった。

「まち」の規模・集積等においても高知市に次ぎ、県下村の中では別格の存在であった。

ところが、その後、後免、伊野、安芸、山田が相次いで「町」になった。中村もノンビリしておれなくなった。

明治三十一年八月、高添朝治村長(二代目)は議会に「中村を中町に変更せんとす・・・」との諮問案を出した。

「村」を「町」に変更することに異論はなかったが、「中町」とすることは大問題となった。

しかし、村長の手続きに間違いはなかった。内務省の定めでは、「町」「村」は自治体の区別名称であるから、地名が「中」とされていることは疑問の余地がない。

だが、住民にとっては、普段、「中」と誰も呼ぶことはないので違和感がある。疑問や反対意見が相次いだ。

それならば、最初の登録手続きにおいて「中村村」にしておかなければならなかったのに、それをしなかったのは、「村村」と村が重複するので、語呂と体裁が悪かったためであろうが、その時はだれも気付かなかった。

中村という地名は全国にも多く、その地域の中心地、中央という意味であり、ここが幡多郡の中心(幡多荘の本郷)という意味であることは明らかである。

ここが中村と呼ばれだしたのは、一條家下向以前からで、弘安四年(一二八一)の金剛福寺文書にその名が最初に登場している。

ただ、中村がややこしいのは、江戸元禄期以降、この地域(四万十川本流と支流後川に挟まれたエリア)は中村(郷分)と中村町(町分)に分かれ、さらに右山、不破、角崎を加えた五つの集落(邑、ムラ)で構成されていた。

その中心は中村町(町分)であったから、最初から自治体名も中村町にしておけば問題はなかった。

結局、「中町」では具合が悪い。かといって「村」のままでは鄙びたイメージがあり、中村の格にはふさわしくないということで、村長は「中村町」に手続きをやりなおし、明治三十一年十一月十日付高知県知事告示を受けた。


 中村市から四万十市へ

戦後の昭和二十八年、中村町は隣接の東山村と下田町に呼びかけ、市政移行協議を初めた。

さらに周辺も加わり、合併は十一町村に及ぶことになった。

問題は市の名前である。合併の軸になるのは誰がみても中村町である。しかし、中村町側は他に気を使って、「一条市」「南海市」などの案を用意していた。

ところが、案ずるより産むがやすし。「中村市でいいではないか」の声が多く、あっさり、満場一致で「中村市」に決まってしまった。暫定市役所を旧中村町役場に置くことも。昭和二十九年三月三十一日新市発足。

中村という名前は、中村の人たちが思う以上に、周辺に浸透し、認知、歓迎されていたということである。

だが、平成十七年(二〇〇五)、中村市から四万十市への三度目の合併においては、中村の名前はあっけなく消える。人口にすれば約十分の一に過ぎない西土佐村の要求を受け入れたためである。

西土佐村は幡多郡とはいえ愛媛県に接していることから、経済的には中村よりも宇和島との結びつきが強い。

財政的に問題を抱えていた中村市は、政府の合併優遇策に喉から手が出た。

事の重大さに気づいた市民から不満の声が出たが、あとの祭り。旧中村町内の町名の頭に中村を付けることで調整した。中村京町、中村一条通、中村小姓町のように。

以上の経過を見て考えられるのは、中村は江戸元禄期以降、町人のまちであったということ。

一條家、長宗我部を経て、中村を支配したのは山内康豊であった。康豊は兄一豊から中村を分け与えられ中村藩をおこした。

しかし、元禄二年(一六八九)、中村藩は徳川綱吉の命で取り潰される。家臣は散り散りになる。

以降、中村には奉行所が置かれ、高知城下から転勤族の上級士族が来るだけで藩直属家臣はいなくなり、町人(商人)中心のまちになる。

町人の自治的運営がなされ、藩もこれを認め、特別行政区的存在になるが、その分、求心力(権力)をもつリーダーがいない。町人は商売において、周辺地域(郷分)の世話になっているので、目立つ行動は控える。遠慮深い。しかし、したたかで名より実をとる。

明治二十二年、県下第二のまちでありながら「中村町」として手を上げなかったこと、戦後の合併においても「中村」の名前にこだわらなかったのも、そんなところにあるのではないかと思われる。

なお、相馬中村藩お膝元の中村は、明治二十二年、宇多郡(のち相馬郡)中村町となったが、昭和二十九年合併、相馬市に。

また、秀吉の地元尾張の中村は明治二十二年、名古屋市(名古屋駅周辺の中心部)となり、昭和十二年、中村区(行政区)として半独立している。

 昭和初期の中村
  昭和初期の中村

 参考文献 『中村町史』、『中村市史』 

「土佐史談」268号 2018年7月 所収
 


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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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