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井上陽水と秋水

井上若水(ワカミ)は南方ブウゲンビル島で敗戦の日を迎えた。

京城(ソウル)で歯科医をしていた時、衛生兵として出征。飢えと病気の地獄の島で、かろうじて生き延びた。

京城に残していた妻フジは娘京子を連れて実家のある福岡県直方市に引き揚げ。若水も遅れて合流、家族の無事を喜び合った。

若水は高知県幡多郡佐賀で、明治四十一年、父廣之助、母小竹の八人の子の長男として生まれた。

井上家は港町佐賀で旅館を兼ねた商売をしていた。同じ佐賀の三宅家から養子として入った祖父魯吉は仕事熱心で繁華な家であった。

魯吉が廣之助の嫁に三宅からもらったのが三宅助太郎、喜代の二女小竹である。細面のかわいい娘であった。

小竹には姉小八重がおり、山崎半次郎と一緒になっていた。

半次郎は下田の豪商平田屋の生まれだったが、家を飛び出し、佐賀に来ていた。

下田は四万十川河口から流域の木材、木炭等を京阪神などに積み出す港町として栄えていた。

嘉永四年の記録では、下田には藩の用に命ぜられた船(御用船)が十四艘あり、土佐の港の中で最も多かった(二位野根十一、三位下ノ茅八 ・・・ 「中村市史」)。

平田屋は下田で一番の廻船問屋で、幕府測量隊伊能忠敬も泊めた。

山崎半次郎の父弁次郎は分家で、平田屋十一代介三郎の弟であった。

平田屋は中村の商人との取引が多かった。その一つが薬種問屋の俵屋(幸徳)であった。

俵屋は古くからの中村商人であったが、江戸享保年間、商売つながりで堺から迎えた幸徳篤胤(初代俵屋嘉平次)に暖簾を預けた。

幸徳三代目篤親の弟(分家)に篤昌(俵屋藤兵衛)がいた。

山崎弁次郎は商売の縁で篤親の娘よしを嫁に迎えた。弁治郎、よしの間に生まれた三男が佐賀に飛び出した半次郎であった。

こうして中村の幸徳家と佐賀の三宅家、井上家が親戚になった。

さて、幸徳篤親の次男が篤明(四代)、その次男が伝次郎(五代)。伝次郎はのちに秋水の号をもつ。

よしと篤明はいとこ、山崎半次郎と伝次郎はまたいとこになる。

さらに秋水の姉の寅(牧子)は同じ中村の商人谷川恒雄に嫁いでいたが、こどもは娘武雄(たけを)一人で、婿養子を迎えることになった。

選ばれたのが佐賀の三宅で、小竹の弟(三男)仲次郎である。

三宅仲次郎は大正七年、武雄と結婚し谷川仲次郎になった。

すぐに娘君代が生まれた。しかし、夫婦仲がうまくいかず、翌年離婚。仲次郎は佐賀に戻った 

話をもとに戻す。

歯科医井上若水の父廣之助は家を継いだが、人はいいが、商売向きではなかった。家業は次第に行き詰る。

ついに昭和九年頃、一家を挙げ神戸に出た。出奔同然であった。若水二十五歳の頃である。

一家は神戸でいろんな仕事につき支えあった。

若水は歯科院で働いた。学校には行かず、独学で技術を身に着けた。さらに京城に渡り、修行を重ね、歯科医の資格をとった。

やっと独立というところで、衛生兵として陸軍にとられた。

復員後は、直方の隣糸田町(田川郡)で歯科院を開業した。

母小竹は昭和十六年、妹小春も十九年、神戸で没。父廣之助や弟、妹たちは田川に迎えたが、父も二十二年喉頭がんで亡くした。

悲しみの中にあった若水に、翌二十三年、待望の長男が生まれた。名を陽水(アキミ)とつけた。

若水と陽水。秋水と似た名である。秋水も「アキミ」と読める。

そんなことから、陽水の名前は、秋水を慕っていた祖父の気持ちをくんだ若水がつけたもの。祖父は秋水が死刑になったので、土佐がいやになり、外へ出た。というような話が結構流布している(歌手武田鉄矢など)。

しかし、廣之助は秋水の影響を受けるようなタイプであったようには思えないし、何より神戸へ出たのは家業破綻によるものであり、しかも昭和九年頃のことであるから、秋水死刑(明治四十四年)からずっと後である。

若水は息子の名に同じ水をつけた。ではなぜ、祖父廣之助は父に珍しい若水と名付けたのか。

実は、若水の名付け親は別にいた。廣之助姉竹野の夫千谷林三郎である。林三郎は明治十一年、幡多郡入野村生まれで、当時地方法務局登記官であった。

敬虔なクリスチャンで、内村鑑三の本を愛読していた。

若水が生まれた明治四十一年二月といえば、秋水が中村に最後の帰郷をしていた時期に重なる。

当時三十歳の真面目な林三郎は秋水から刺激を受けたのかもしれない。秋水は入野で講演をしたこともあるので、聞いたかも。

しかし、裏付けるものはない。

陽水は父を継ぐべく歯科大をめざしたが、失敗。親の期待を裏切り、好きな音楽の道に進んだ。

最初、アンドレカンドレの名でデビューしたが、さっぱり。

昭和四十七年三月、本名の井上陽水(ヨウスイと呼ばせた)の名で再デビュー。曲は「人生が二度あれば」であった。

 父は今年二月で六十五
 顔のシワは増えてゆくばかり
 
若水は若くして佐賀を離れざるをえなかったくやしさがあり、いつか故郷に錦を飾りたいという思いをもっていた。

同年、佐賀には歯科院がなかったので、当時の町長から強い要請を受け、念願の里帰りを果たし、開院準備中であった。

しかし、六月、突然倒れた。享年六五歳。陽水の歌は父の鎮魂歌になってしまった。

若水は佐賀の荒神山、井上家塁代墓の廣之助夫婦の隣に葬られた。

父の思いがわかっているのか、陽水はたびたび墓参りに帰って来ている。里帰りコンサートをノーギャラで開いたことも。

佐賀の親戚が若い陽水を秋水墓に連れていったことがあると証言している。

しかし、陽水は秋水につては語らない。名前の由来も含め、その心の内を覗きたい。


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 廣之助、若水の墓

原題は「陽水と秋水」 「土佐史談」269号 2018年11月 所収

参考文献
さらに詳しくは、
田中全「陽水と秋水」『文芸はた』5号所収、2018年7月 (本ブログ 2018年8月15,16,17日転載)



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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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