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桑原戒平(2)

2.北豊島郡長、小笠原島司、台湾新竹支庁長


戒平には中央官吏時代からの人脈があったのであろう。上京後、北豊島郡長(明治十九~二十一年)に就いた。板橋に構えた屋敷には、車引き(運転手)のほか、書生三人、女中二人がいた。旧山内侯も迎えたこともあったという。

続いて、八丈島島司、小笠原島司に。島の責任者はいえ、いまの感覚では左遷のようなイメージがあるが、海洋進出をめざしていた当時は重要な国境拠点であった。

さらに、日清戦争で日本統治となってまもない台湾北部新竹支庁長に(明治二十九~三十二年)。途中から、新竹国語伝習所長も兼務した。

台湾総督として仕えたのは乃木希典と児玉源太郎であった。二人とも熊本時代が重なっている。ウマが合ったのは融和型の乃木のほうで、強圧型の児玉とはぶつかった。結局、児玉に辞表を書き、官を辞した。

戒平には六人(四男、二女)の子がいた。長男の順太郎は清国留学中の明治三年に生まれた。秋水より一年上であり、幼いころ中村で一緒に遊んだ仲であった。

後年、秋水は「順太郎さんを見よ、あんなに大人しうせねばいかんといって、順太郎さんのお陰で何遍母に叱られたか知れん。子供のときには大に順太郎さんを怨んだものだ。」(岡崎輝「従兄秋水の思出」)と語っていた。

順太郎は鉄道技師となり、後に朝鮮で鉄道敷設を行ったりしたが、当時は徳島にいた。戒平は台湾から徳島に引き揚げ、しばらく滞在した。

その後再び上京、王子、小石川などに住んだ。娘清はまもなく結婚し家を出たので、手記には以降の戒平の様子はあまり書かれていない。官を辞したあとは公職にはつかず、悠々自適の生活を送ったようである。

明治三十四年、若き頃の剣術の師であった樋口真吉の伝記『樋口先生』の編集出版をした。また、西南戦争などを記録した『西南紀伝』の編集にも協力したと書かれている。(続く)

「文芸はた」第5号
2018年12月刊所収

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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