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桑原戒平(3)

3. 佐竹音次郎、沖本忠三郎、永橋太郎


晩年は鎌倉に隠棲した。鎌倉で小児保育園を営んでいた佐竹音次郎からの勧めがあったためである。

音次郎は元治元年(一八六四)下田村竹島の農家生まれ。明治十九年、向学の志を立て二十二歳で上京し戒平の家の門を叩いた。面識はなかったが同郷先輩を頼ったのである。

戒平は快く書生として住み込ませた。先に書いた三人の書生の一人であったものと思われる。

音次郎は軍人志望であったが、年齢制限にかかった。そこで戒平は北豊島郡下の巣鴨小学校校長の職を紹介した。音次郎が中村でとった教員免許をもっていたためである。

音次郎はその後医者になり、明治二十七年、鎌倉の腰越に医院を開業する。

患者の中に家の事情で育てられない赤子がいたことで、孤児を預かる「小児保育院」を併設。「保育」とは音次郎が初めて使った言葉で「保んじて育む」という意味であった。「保育の父」と言われる所以である。

音次郎はキリスト教に入信。「聖愛一路」の精神から、孤児救済のための事業に専念する。鎌倉に同三十九年、鎌倉小児保育園を設立した。

音次郎の事業を二人三脚で献身的に支えたのが妻熊(熊子)であった。熊は下田村鍋島の郷士沖本忠三郎(嘉永元年生)の二女。忠三郎は維新東征迅衝隊十二藩隊で戒平の部下であった。のち熊本で警部をしたと記録されているから、安岡良亮や戒平に従ったのであろう。

熊は明治九年神風連の乱の直前熊本で生まれたのでその名をつけられたものと思われる。

既刊の記録では、音次郎に熊を紹介したのは安岡友衛だとされている。友衛は安岡良亮の弟良哲の長男(明治五年生、従兄秋水の一年下)であり、東京で医学を学び中村で開業していた。音次郎とは医者つながりで交流があったのかもしれないが、音次郎のほうが八歳上である。戒平が自分の元部下の娘を音次郎に紹介し、その仲立ちを中村でしたのが友衛であったと考えるのが自然であろう。

忠三郎の娘には長女幸(幸子)もいた。幸は十五歳で東京に出て、牧師植村正久に就いてキリスト教に帰依。のち同郷の東京帝大教授弘田長の指導を受け小児科医となり、音次郎の腰越医院を継いだが、関東大震災で圧死した。
 
才女二人を育てた沖本忠三郎については今後調べたい。

戒平の書生には三原村出身の永橋太郎(音次郎と同年生)もいた。永橋は八丈島、小笠原、台湾にも同行し、官務につきながら家族の世話もした。ふるさとに帰ったあとは、三原村長(明治三十四~四十年、大正九~十年)を務めている。

永橋村長は明治三十七年、国政選挙で高知二区(幡多郡など)から出馬し当選した安岡雄吉(良亮長男)の応援をした記録が残っている。

戒平は、東京にいても郷里中村、幡多の人脈を大切にした。しかし、自らは土佐に帰省した記録は見あたらない。

同求社の事業失敗で親戚に迷惑をかけたことから、帰りたくとも帰れなかったのであろう。

親戚側でもそれは深いわだかまりとして残った。

戒平は安岡家とは東京でも行き来があったようで、清は雄吉やその弟秀夫にかわいがってもらったとある。

しかし、小野家、幸徳家とは溝を埋めることができなかったのではないか。

県会議員を辞めた実弟小野道一は、これも中村にはいられなくなり明治二十三年東京へ出た。当時独身であった秋水を下宿させたりするが、困窮生活であった。病気にもなり、ついに同二十八年、原因不明の自死。

この間、兄戒平は一時島司で東京を離れていたとはいえ両家の手記等(岡崎輝「従兄秋水の思出」など)に互いの名前は出てこない。

同じ東京にいながら兄は救いの手を差し伸べなかったのか。弟が拒絶したのか。秋水の記録にも、安岡家との行き来は出てくるが、戒平の名前は出てこない。

戒平は音次郎の影響もあって七十歳を過ぎてから鎌倉メソジスト教会会員となり、夫婦で洗礼を受けた。聖書を携え熱心に教会に通った。

大正九年三月十四日、七十六歳で昇天。
鎌倉保育園すぐ近くの寿福寺に葬られた。

辞世の句の「みつかい」は「(神の)御使い」。「罪」とは神への罪か、それとも・・・と思う。

みつかいのつばさの音や雪の空
雪の空罪のしるしのあともなし              

「文芸はた」第5号
 2018年12月刊所収  転載は以上で完。 追記が続く。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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