桑原戒平(4)
以上は、「文芸はた」第5号への投稿をそのまま転載したものであり、昨年9月時点で書いたものであるが、その後、新たにわかったことなどについて、以下追記をさせていただきたい。
1. 同求社について
同求社は戒平が西南戦争終結後中村に帰って来てから立ち上げた事業組織である。
土佐藩が行っていた事業の払い下げ等を受け、親戚縁者等から資金を募ったことはわかっていたが、その内容、規模等は不明であった。
このほど、郷土史家松岡司氏による研究論文「高知県帝政派の研究」(青山文庫紀要5~13)の中に、書かれていることを知った。
それによれば、同求社は明治10年頃より準備が始められ、県下数百名の同志から資金を集め同16年1月設立。本社は大阪南安治川、分社は高知農人町と中村。
幡多郡江川村(元西土佐村)でアンチモニー(アンチモン)鉱山開発・製造や大阪・高知間の運輸(汽船速凌丸)など。
さらに、幡多郡田ノ口銅山も開発し、同鉱山には17年5月時点で従業員200人いたという。
びっくりするほどの規模の士族授産事業であり。出資を募った範囲の広さや、本社が大阪だったとは。弥生新聞(帝政派)の人気投票において「商法」部門で戒平が県下1位になった背景は、こういうことだったのか。
アンチモニー開発は実弟の小野道一が主導をしたと書かれている。道一はその後の事業破綻の犠牲者のように思っていたが、共同事業のような形で深くかかわっていたとこがうかがえる。
2. 戒平が中村を出た経緯について
同求社は「士族の商法」で破綻する。戒平は中村にいられなくなり東京に出て北豊島郡長になるのだが、その後は中村に戻ってきた記録がないと、先に書いた。
しかし、東京の戒平子孫の方から連絡があり、娘清の手記に少なくとも一度は戻っているという記述があることがわかった。
戒平は明治19年8月、北豊島郡長の職に就いているが、当時、普通なら4年任期のところ約2年で同21年7月に辞め、いったん中村に帰ってきていた。そして約2半後の同23年12月に再び出て、今度は小笠原島司になっている。
なぜ帰ってきたのかの記述はないそうだが、間違いなく同求社の破綻整理のためであろう。
私は、同求社破綻後に中村を出たものと思っていたが、そうではなく、少なくとも最初中村を出た頃は、経営悪化していたかもしれないが、破綻まではしていなかったのではないかと思われる。引き継いだのは道一だろうか。
県会議長までも務めた小野道一がこれの責めを負い(県から貸付を受けていた)、議員を辞職し、一家で東京に出たのも同じ明治23年7月である。兄弟ともに、同年に出たことになる。
また、桑原家長男であった戒平は中村を出る時に家督を弟の義忠へ譲って出たものと思っていたが、実際はそれより前、維新東征の際であり、国事に奔走するためであったこともわかった。
安岡良亮が弟良哲に、自分はいつ命を落とすことになるかもわからないからと家督を譲ったのと同じである。戒平、良亮ともに、中央志向が強かったのであろう。
その後、戒平が中村に帰ってきたことがあるかどうかは、いまのところわからない。
3. 東京での桑原家と小野家、幸徳家の関係について
私は互いの行き来の記録を見つけられないことから、事業破綻がきっかけで断絶状態になったのではないかと思わせる書き方をした。しかし、そうではなく、親戚同士として普通の行き来があったことがわかりホットした。
一つは、その後桑原家の古いアルバムを見せてもらったが、その中に小野家との交流を示す写真が出てきたこと(両家のこどもの写真)。
二つは、師岡千代子が書いた「雨々風々」中に戒平と秋水の交流をうかがわせる記述が見つかったこと(戒平は憎めない爺さんで、秋水はいつまでも洟垂れ小僧に見られていた・・・と)。
三つは、秋水日記、たとえば明治32年9月に、桑原民衛(一族の譲長男)がたびたび秋水家を訪ねてきている記述があること。
以上1,2,3から思うことは、戒平、道一兄弟ともに、浮き沈みの激しい、時代に翻弄された一生であったということ。
兄戒平はそれでも命を全うしたが(大正9年没)、弟道一は明治28年自死している。
その原因の一つがが兄弟の断絶にあったのではないかと推測したが、そのような関係ではなかったことはわかった。
では、なぜ。
最後は生活も苦しく、病気になっていたというから、それが主因なのか。
道一の娘岡崎輝は「従兄秋水の思出」に、秋水が平民新聞に、自分が社会主義者になった理由の一つに、うち続く身内の不幸があったと書いているのは、道一の一生があまりに惨めであったということだと、記している。
私の最大の関心はここにある。
引き続き調べていきたい。(終り)

蕨岡 桑原墓 遠祖 長義墓

羽生山 桑原墓 義厚墓(戒平父)

鎌倉寿福寺 桑原家墓(戒平)
1. 同求社について
同求社は戒平が西南戦争終結後中村に帰って来てから立ち上げた事業組織である。
土佐藩が行っていた事業の払い下げ等を受け、親戚縁者等から資金を募ったことはわかっていたが、その内容、規模等は不明であった。
このほど、郷土史家松岡司氏による研究論文「高知県帝政派の研究」(青山文庫紀要5~13)の中に、書かれていることを知った。
それによれば、同求社は明治10年頃より準備が始められ、県下数百名の同志から資金を集め同16年1月設立。本社は大阪南安治川、分社は高知農人町と中村。
幡多郡江川村(元西土佐村)でアンチモニー(アンチモン)鉱山開発・製造や大阪・高知間の運輸(汽船速凌丸)など。
さらに、幡多郡田ノ口銅山も開発し、同鉱山には17年5月時点で従業員200人いたという。
びっくりするほどの規模の士族授産事業であり。出資を募った範囲の広さや、本社が大阪だったとは。弥生新聞(帝政派)の人気投票において「商法」部門で戒平が県下1位になった背景は、こういうことだったのか。
アンチモニー開発は実弟の小野道一が主導をしたと書かれている。道一はその後の事業破綻の犠牲者のように思っていたが、共同事業のような形で深くかかわっていたとこがうかがえる。
2. 戒平が中村を出た経緯について
同求社は「士族の商法」で破綻する。戒平は中村にいられなくなり東京に出て北豊島郡長になるのだが、その後は中村に戻ってきた記録がないと、先に書いた。
しかし、東京の戒平子孫の方から連絡があり、娘清の手記に少なくとも一度は戻っているという記述があることがわかった。
戒平は明治19年8月、北豊島郡長の職に就いているが、当時、普通なら4年任期のところ約2年で同21年7月に辞め、いったん中村に帰ってきていた。そして約2半後の同23年12月に再び出て、今度は小笠原島司になっている。
なぜ帰ってきたのかの記述はないそうだが、間違いなく同求社の破綻整理のためであろう。
私は、同求社破綻後に中村を出たものと思っていたが、そうではなく、少なくとも最初中村を出た頃は、経営悪化していたかもしれないが、破綻まではしていなかったのではないかと思われる。引き継いだのは道一だろうか。
県会議長までも務めた小野道一がこれの責めを負い(県から貸付を受けていた)、議員を辞職し、一家で東京に出たのも同じ明治23年7月である。兄弟ともに、同年に出たことになる。
また、桑原家長男であった戒平は中村を出る時に家督を弟の義忠へ譲って出たものと思っていたが、実際はそれより前、維新東征の際であり、国事に奔走するためであったこともわかった。
安岡良亮が弟良哲に、自分はいつ命を落とすことになるかもわからないからと家督を譲ったのと同じである。戒平、良亮ともに、中央志向が強かったのであろう。
その後、戒平が中村に帰ってきたことがあるかどうかは、いまのところわからない。
3. 東京での桑原家と小野家、幸徳家の関係について
私は互いの行き来の記録を見つけられないことから、事業破綻がきっかけで断絶状態になったのではないかと思わせる書き方をした。しかし、そうではなく、親戚同士として普通の行き来があったことがわかりホットした。
一つは、その後桑原家の古いアルバムを見せてもらったが、その中に小野家との交流を示す写真が出てきたこと(両家のこどもの写真)。
二つは、師岡千代子が書いた「雨々風々」中に戒平と秋水の交流をうかがわせる記述が見つかったこと(戒平は憎めない爺さんで、秋水はいつまでも洟垂れ小僧に見られていた・・・と)。
三つは、秋水日記、たとえば明治32年9月に、桑原民衛(一族の譲長男)がたびたび秋水家を訪ねてきている記述があること。
以上1,2,3から思うことは、戒平、道一兄弟ともに、浮き沈みの激しい、時代に翻弄された一生であったということ。
兄戒平はそれでも命を全うしたが(大正9年没)、弟道一は明治28年自死している。
その原因の一つがが兄弟の断絶にあったのではないかと推測したが、そのような関係ではなかったことはわかった。
では、なぜ。
最後は生活も苦しく、病気になっていたというから、それが主因なのか。
道一の娘岡崎輝は「従兄秋水の思出」に、秋水が平民新聞に、自分が社会主義者になった理由の一つに、うち続く身内の不幸があったと書いているのは、道一の一生があまりに惨めであったということだと、記している。
私の最大の関心はここにある。
引き続き調べていきたい。(終り)


蕨岡 桑原墓 遠祖 長義墓


羽生山 桑原墓 義厚墓(戒平父)

鎌倉寿福寺 桑原家墓(戒平)