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安岡良亮一族の墓(5)

明治9年、熊本神風連の乱で殉職した初代熊本県令安岡良亮(りょうすけ)の家系と墓について調べたことを、2年前、このブログに「安岡良亮一族の墓」(1)~(4)として書いた。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-310.html
2017.1.6~12

即ち、中村における安岡家の初代伝八郎良勝は中村藩(藩主山内康豊)の家臣であったが、元禄2年(1689)、4代久左衛門良儀の時、中村藩が改易されたため禄を失い、間崎村に移り住み、郷士となった。(のちに中村に戻り、良亮は10代目)

5代貞助良久の弟に伝七眞儀がいた。伝七は分家して橋上村(現宿毛市)の庄屋になった。

この橋上に移った安岡分家の墓を捜したいと思い宿毛歴史館に問い合わせていたところ、このほど、その場所らしきところを知っているという地元の人を紹介されたので、2月17日、訪ねた。

橋上に行くのは初めてであったが、国道56号線宿毛市芳奈交差点から県道を北に走ると15分ほどで旧橋上村の中心部に着いた。

ここでその方と待ち合わせ。すぐそばに旧庄屋跡があり、ここですと教えてもらった。石段の上の広い一角は、いまは菜花の畑になっているが、なるほど重々しい雰囲気が感じられる。

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90歳でもなお元気なその女性は、自分のおばあさんからそんな話を聞いたという。安岡家の人は、みんな頭がよかったということも。

それらしき墓は、この畑から見える後方の山の上にあるという。

70代男性も加え、3人で登る。斜面の道はシダで隠れており、鎌で刈りながら進む。ヒノキの植林部分に入ると日陰になり、シダや草は少なくなった。さらに登ると、墓が一列に現れた。これだという。

数えると15基ある。

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手前の3基は濱口と刻まれているが、残りは全部安岡。「宿毛市史」によれば、濱口は安岡の後の庄屋の名前だ。(3基は、濱口仁太右衛門の次男、長女、後妻の墓。安政、文久、慶應年間没。本人墓はない。)

安岡の中央の一番大きな墓石の表は戒名、裏には「橋上郷大保長 俗称安岡傳七真寅 行年八十歳 病終時安永七戊歳三月十二日」とある。

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「傳七真寅」となっているが、隣の妻の墓は橋上郷大庄屋安岡「傳七眞儀」妻となっている。

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これについては、間崎にも夫婦連名の墓石があり、この連載(3)に写真を掲載しているとおり、「橋上村安岡傳七眞儀夫婦」と刻まれている。裏面に没年月日も同じ日付が刻まれている。実家のほうにも霊をまつったのだろう。

郷土史家上岡正五郎先生(故人)作成の安岡家系図でも「傳七眞儀」となっているので、「傳七真寅」は「傳七眞儀」と同じ人物とみて間違いないだろう。

同系図では、傳七眞儀の後は、久次右衛門儀寅(文化7年没) ― 弥平太(文政13年没)と続いている。この二人の夫婦墓もあった。弥平太四女墓も。また、傳丞夫婦墓もあり、系図に書かれている弥平太の弟「傳之丞」のことであろう。

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弥平太のあとの、左蔵良稌 ― 左吉弥三郎の墓はなかったが、「左吉妻」という墓はあった。

系図には出てこない墓としては次のものがあった。

「上土居九樹両村大庄屋安岡傳七夫婦」( 没年 士嘉永元申九月二十一日 姉天保十亥十一月二十日 ) ・・・ 伝七という名前は世襲的に複数使われているようだ。

「安岡伊蔵夫婦」( 同 明治二十一年二月、同三十年旧十二月二十八日オツル )

「安岡新吾夫婦」( 同 明治四十年旧七月二十〇日、昭和二年旧七月二十九日条子 )

「安岡甚三夫婦」( 同 昭和三年四月三十日 行年五十三歳 昭和三十年一月〇〇 加太 行年七十七才 三男昇建立 )

「陸軍伍長安岡益雄」( 同 昭和十九年九月三十日 太平洋方面戦闘に於て戦死 行年二十四才 )

墓に案内してくれた90歳の女性が言うには、甚三夫婦の墓を建てた三男昇さんは市内片島に住んでいた。以前は墓参りに来ていたし、戦死した安岡益雄も同四男であり覚えている、とのことであった。この方が墓守をしていたが、いまは無縁墓になっているのであろう。

系図で左吉弥三郎に続く、良純―盛治―正篤の墓がここにないのはわかっていた。

上岡正五郎記録によると、良純は天保年間橋上生まれだが、明治に入ってから高知県官吏を経て東京に出て税務官吏を務めた。以降東京に住む。

良純には男子がなく娘光恵の婿養子に迎えたのが高知大西家からの盛治であった。

盛治夫婦にも男子がなく娘婦美の婿養子に迎えたのが、当時東大生であった大阪堀田家の正篤(まさひろ)である。

正篤は思想家、陽明学者となり、大平洋戦争終結の天皇詔勅に筆を加えたことで広く知られている。

正篤の東大時代の身元保証人は安岡良亮の長男雄吉(元代議士)であった。正篤の墓は東京都立染井霊園にある。良純、盛治墓も東京のどこかにあるのであろう。

橋上を出た良純と、上記伊蔵、新吾、甚三は同族なのであろうが、どういう関係なのか、また左蔵良稌、左吉弥三郎の墓がなぜここにないのか(左吉妻の墓はあるのに)、さらに安岡のあと橋上庄屋になった濱口仁太右衛門本人の墓はどこにあるのかなど、はっきりしないことが残っている。

しかし、安岡正篤につながる橋上村安岡分家の墓が見つかり、過去の記録が裏付けられたことで、2年越しのモヤモヤがすっきりした。(終り)

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 松田川上流の橋上

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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