江藤新平

 先に東洋町に出かけたのは町長に会うほかに、もう一箇所、行きたいところがあったからだ。江藤新平が最後に捕縛された場所である。

その場所をしるした石碑は甲浦小学校近くの「平和公園」(平和の塔、忠霊塔、日露戦役記念碑などもある)の一角に建っていた。「江藤新平君遭厄之地」と刻まれている。大正6年、甲浦青年団建立とある。

傍らの「江藤新平・甲浦遭厄の標」には、「東洋町民は、この標を建立し偉大な功績を顕彰する」と書いてある。

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 解説文は以下の通り。

 「 明治5年、司法卿や参議に就任。明治6年政変後に野に下る。明治7年、板垣退助、後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は日本近代政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など、国民の基本的人権の礎を築いた。佐賀の乱(明治7年)により、政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日、ここ甲浦の地で捕縛された。」

 江藤新平は地元の佐賀から薩摩に逃げ、西郷隆盛に会ったあと、土佐の同志を頼って宇和島に上陸した。そのあと山を越え、西土佐に入った。権谷、津野川を下り中村へ。宿毛に林有造を訪ねたが高知にでかけており不在で、平田に引き返したあと三原に入り、清水側から伊豆田峠の遍路道を越え、津蔵渕に降り、四万十川河口を下田に渡り、伊屋(現・双海)から舟で高知へ向かった。追手を巻くためか、複雑なコースをたどっている。(以上「中村市史」による。)

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 高知では、ひそかに林有造、片岡健吉に会ったが、取り締まりがきびいしいことから逃亡は困難と判断。大阪経由で東京に出て自首し、自らの主張を述べようとしたが、大阪に渡る直前、甲浦でつかまってしまう。

新平は東京行きを願ったが佐賀に帰され、裁判にかけられ即日斬首。自分がつくった司法制度により裁かれるという皮肉。判事は元部下。司法卿までつとめた人間をさらし首にするという、政敵大久保利通の怨念がこもった措置であった。新平41歳。

新平は幡多では、行きずりの民家で一宿一飯を受けている。津野川、伊豆田峠、伊屋などでは、その家の名もわかっている。伊屋の家には、新平がお礼にと残していった、炭火式火あぶりが残されている。
 
権力の絶頂から政変で罪人とされ、さらし首。
私は前の仕事で福岡にいたとき、佐賀県も担当し、多くの人たちとお付き合いをした。頑固で一徹、議論好き、そして酒が強いところは土佐人と共通している。

 明治維新の功は薩長土肥にあるが、その後の明治政府においては薩長が主導権を握り、土肥は排除されていく。立ち回りが下手というか、要領が悪いのが土肥。その典型が江藤新平であるだけに、親近感があり、同情を禁じ得ないところである。甲浦青年も碑に「遭厄」(わざわいにあう)と刻み、新平の無念を伝えている。

政変後の権力者は容赦がない。
そういえば歴代首相では長州(山口県)出身者が最も多い。
今の安倍普三氏もその一人である。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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