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安岡良亮、雄吉の新資料について(1)

はじめに

安岡良亮(りょうすけ、1825~1876)は、樋口真吉と並ぶ幕末幡多勤王運動の領袖であり、戊辰東征に参加後、新政府に仕えたが、明治9年10月、初代熊本県令の時、不平士族神風連の乱で斬られ、命を落とした。

安岡良亮(中村市史)
安岡良亮 中村市史より

良亮、およびその長男で代議士になった雄吉(おきち、1856~1921)については、本誌264号投稿「安岡良亮とその一族」で紹介をさせてもらった。

私は幸徳秋水を顕彰する会事務局長をしている。安岡家は幸徳家と親戚関係(秋水母多治は良亮の従妹)にあり、雄吉の弟秀夫(時事新報主筆)を含め、秋水にいろんな影響を与えており、また尾﨑行雄(咢堂)との因縁があること等もあって、私はその後も同家について調べている。

同家は、良亮―雄吉―隆司―篤夫―由恵と続いており、横浜市在住の現子孫から聞きとり等をする中で、良亮、雄吉等にかかる資料が残されていることがわかり、昨年、全30点を預からせてもらった(四万十市に寄贈予定)。

その一部は、幕末維新博しまんと特別企画展(四万十市立中央公民館)第Ⅵ期において公開展示し、高知・読売両紙に取材記事が掲載された。

以下、これらの資料を紹介することにより、その後明らかになった安岡家一族の実像に迫ってみたい。


 1.良亮にかかる資料

安岡良亮の新政府入り後の経歴等については、郷土史家上岡正五郎氏(故人)が「中村市史」に概略書いており、先の投稿でも紹介したが、時期的詳細はわからない部分があった。

今回資料には良亮、雄吉の官位辞令書が多く含まれており、その一部が判明した。資料は時期が古いものから順に以下の通りである。

一、 明治2年10月2日付「位記」、「藤原良亮 叙従六位 右大臣従一位藤原朝臣實美宣言 大辨従三位藤原朝臣俊政奉行」。
 有栖川宮の推挙で弾正台に入り従六位、官位は大忠に登用されている。

二、 明治3年4月29日付「辞令」、「従五位守弾正台大忠藤原朝臣良亮 任集議判官 右大臣従一位藤原朝臣實美宣言 大辨従三位藤原朝臣俊政奉行」(資料1)。この間、従五位へ昇位、弾正台大忠から集議判官へ。

資料1 良亮集議判官辞令
資料1 良亮集議判官辞令

この辞令(官記)は当時のみ適用した用語「宣下状」のひとつで、「天皇御璽」の朱方印が上部左右に押される明治初期の異形ながら、「宣」「奉」「行」を使って天皇の命を宣(の)る古代以来の「宣旨」の名残がみえる。また、位記表現である「守」が示されるなど、新政権が王政復古だったということを示しており、近代行政文書としても貴重である。(注1)
安岡でなく藤原姓となっているのは権威付けのためか。

三、 明治3年9月14日付、「安岡集議判官 伺通謹慎被仰付候事 太政官」。
謹慎処分を受けている。理由不明ながら、上岡正五郎資料メモに「おくげのやりかたは無茶」とあるので、有栖川宮が絡んでいるのかも。

四、 明治4年3月付、「民部少丞安岡良亮 高崎藩出張仰付候事 太政官」。

五、 「藩札取り扱い意見書」(写)。
何者(不明)かが高崎藩宛に出したものとみられる。

六、 同10月28日付、「従六位安岡良亮 任群馬県権参事 右宣下候事 太政官」。

謹慎により従六位に降位させられ、民部少丞から版籍奉還後の高崎藩に出張を命じられたものとみられる。同藩は一揆がおこるなど政情不安。廃藩置県により明治4年7月高崎県に、さらに10月群馬県となり、権参事に。

七、 同11月5日付、「権参事安岡良亮 任群馬県参事 宣下候事 太政官」。
すぐに参事に昇格。

八、 同12月18日付、「群馬県参事従六位安岡良亮 任度會県参事 右宣下候事 太政官」。

九、 同月同日付、「群馬県参事従六位安岡良亮 任度會県参事 太政大臣従一位三條實美宣、正五位土方久元奉」。

高崎在任9ヶ月で混乱収拾に目途をつけたあと、同じ日付で同内容(度會県参事へ異動)の二つの辞令が出ている。度會県(現三重県の一部)は伊勢神宮の膝元で、新政府にとって重要拠点でありながら、政情不安であった。

ここで約一年半かけ事態を収拾したあと、明治6年5月、白川権令(のち県令)へ異動。白川県は明治9年2月22日付で熊本県と名称を変え、初代熊本県令になっているが、これら熊本関係の辞令は今回資料にはない。

当時熊本では旧士族の実学党、敬神党が対立、さらに熊本バンド(キリスト教)が結成されるなど各派乱立していた。良亮は硬軟両用の融和策で事態を収拾しようとし効果をあげていたが、明治9年3月、新たに廃刀令が出されたことで、ついに同年10月24日、不平士族神風連(敬神党)が暴発、その斬り込みにあい命を落とした。

十、 明治9年11月13日付「下賜」、「故縣令安岡良亮 右明治四年正月ヨリ勤続二付 目録之通下賜候事 熊本縣」。「目録」「拝供 白米一苞 阪井保佑」

十一、明治10年3月8日付「下賜」、「故熊本縣令従五位安岡良亮 兇徒暴挙ノ際非命ノ死ヲ隊ケ候段憫然二付別紙目録ノ通下賜候事 太政官」。別紙「吊祭料金三百圓 家族扶助料金七百圓」(資料2)。

資料2 良亮殉職弔意下賜 資料2別紙 
  資料2 良亮殉職弔意下賜

十、十一は良亮殉職に伴う熊本県と新政府(太政官)からの弔意下賜である。県の阪井保佑とは何者か不明(県令ではない)、明治4年からが対象になっている理由も不明。最後は従五位となっている。

良亮は維新わずか9年で、弾正台、集議判官、民部省、群馬、三重、熊本といろんなポストを渡り歩いており、新政府が揺籃期で、政権基盤がぜい弱であったことを示している。

版籍奉還、廃藩置県を皮切りに新地方制度への移行過程では、旧身分の撤廃などで不満と混乱が渦掻く中、その収集と安定のために身を削った。

人心を掌握する良亮の力量を買っての大久保利通による人事とされているが、宮仕えの辞令一つで駒のように動かさるのは、昔も今も同じである。

なお、廃藩置県後の地方官位(職位)は短期間に変遷している。最初の知藩事は旧藩主や公家が移行しているので、参事はナンバー2、権参事はナンバー3。そのあとの権令、県令は知事にあたる。(注2)   
 
(注1) 松岡司氏にご教示いただいた。
(注2) 岡村征勝氏にご教示いただいた。

(続く)


「土佐史談」270号 
2019年3月所収

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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