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安岡良亮、雄吉の新資料について(2)

 2. 雄吉にかかる資料

雄吉も同様に官位辞令書から紹介する。

一、 明治12年11月28日付、「御用掛安岡雄吉 第二課附属申付候事 元老院」(写)。

二、 同14年11月14日付、「内務省御用掛安岡雄吉 庶務局兼務差免 内務省」(資料3)。

資料3 雄吉内務省辞令
資料3 雄吉内務省辞令

三、 同17年3月7日付、「東京府御用掛安岡雄吉 庶務課兼調査掛申付候 東京府庁」。

四、 同月同日付、「非職内務省御用掛 東京府御用掛申付 月俸金六拾圓給与候事 但取扱准判任官候事 東京府庁」。

父良亮の殉職は当時の一大事件であった。その時雄吉は二十歳、慶應義塾に学んでいた。良亮の長男として衆目を集め、明治11年、最初内務省に入る。しかし、若いころでもあり、官職としての特別な事績は残っていない。

五、 尾﨑行雄借金証書「証 金壱百圓也 右六個月分拝借仕ル也 明治十二年九月二十五日 尾﨑行雄 安岡雄吉殿」(写、資料4)。

資料4 尾﨑行雄借金証(写)
資料4 尾崎行雄借用書

尾﨑行雄の父行正は武蔵国八王子で土佐維新東征迅衝隊に合流、土佐士族身分となる。以後良亮に家僕のように従い、行動を共にした。

熊本神風連の乱のあとも、行正は雄吉を除く良亮遺族を東京から中村に送り届け、行正家族も明治14年まで安岡家に同居している。

行雄は雄吉より五歳下。度會県から親元を離れ上京、雄吉と同じ慶應義塾に入った。明治12年といえば新聞記者になって結婚し、生活費に困窮していた頃であった。

雄吉の手元には父の弔慰金があった。行雄は家族同様の弟分であったので用立てたのであろう。

行雄は「咢堂自伝」に良亮との出会いについて書いているが、「婦人の友」昭和26年6月号にも「私の小学校時代」と題した文章を寄せている。

 「住居が父の上役であった安岡良亮氏の駿河臺の屋敷内にあった関係上、氏の七書の講義など時時、親子ほども年齢の違う聴講生の中に交つて聞いた。安岡氏は後に各地の縣知事を歴任した人であったが、武藝にも達し、文學についても造詣の深い人で、聴講生の中には後に名を成した人も幾人かあった。」

六、 安岡雄吉納税証書(写) 明治19年3月8日 
間崎村、津蔵渕村などの土地の記載があるので、安岡家が江戸時代に住んでいた現四万十市八束地区に土地をもっていたことを示している。

七、 明治37年3月8日付、「安岡雄吉衆議院當選證書 高知縣郡部衆議院議員選挙区 高知県知事宗像政」(資料5)。

雄吉は官を5年ほどで辞めた。元来学者肌の理論家であり、後藤象二郎提唱の大同団結運動に参加、その機関誌『政論』で論陣を張った。

明治25年、第2回帝国議会選挙では高知県第二区(高岡郡、幡多郡)に帝政派から出馬したが落選。2回目は明治35年、東京から出馬したが落選。明治37年は三度目の挑戦での当選であった。

 資料5 雄吉衆議員当選証書
資料5 雄吉当選証書

八、 同選挙資金費用「清算書」
事務所借家料、運動員日当などの明細。運動員では、幸徳駒太郎、政岡壮太郎、横田金馬、永橋太郎(三原村長)らの名前がある。

九、 明治39年4月1日付、衆議院議員安岡雄吉 明治勲章四等旭日小綬章証書。

十、 7人並んだ写真。(資料6)
 後列左が雄吉。撮影時期、その他の人物も不明。国会議員時代のものと推測されるが、おわかりになる方はご教示いただきたい。

 資料6 雄吉写真(後左)
資料6 雄吉写真 (後列左)

十一、 大隈重信からの書簡 雄吉宛(写)。 
 大隈が病気のさい見舞ったことへの礼と快癒の報告。10月20日付になっているが、年次不明。大物政治家大隈とも親交があったことを示している。

十二、 尾﨑行雄書簡(写) 隆司宛(雄吉長男)。(資料7)
 雄吉は大正10年11月1日没。その弔意を示すもの、11月4日付。雄吉の墓は神奈川県藤沢市泉蔵寺にある。

資料7 尾﨑行雄書簡 安岡隆司宛(写)
資料7 尾崎行雄書簡 安岡隆司宛(写)

(続く)


「土佐史談」270号 
2019年3月 所収

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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