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安岡良亮、雄吉の新資料について(3)

3. その他資料

一、 宮司が書いたとみられる祭文が三枚ある。一枚は良亮の父良輝(故五郎)を祭るもの。二枚は良亮を祭るもの。良亮の一枚は「藤崎宮祠官兼少講義吉永千秋」と書かれている。あとの二枚は記載なし。良輝およびその先祖墓は、中村羽生山と間崎にある。

二、 雄吉の長男隆司は煙草専売局技手、鉄道技手などを勤めていた。その勲章三通(勲八等、大礼記念章、勲七等)。

三、 隆司時代のものとみられる親族の系図、住所メモ。
この中に、雄吉の弟秀夫の墓は多摩墓地、息子の名は隼太と書かれている。しかし、隼太以降の子孫の名前と消息、および秀夫墓の場所特定はできていない。

 
 おわりに

私は2017年4月、熊本地震直後、熊本城を見通す熊本市花岡山にある安岡良亮墓を弔った。墓は県官墓地の中にあり、一番大きかったが、周りには草が生え荒れていた。

神風連の乱で殉職した熊本県初代知事でありながら、今は訪れる人もなく、県民から忘れられた存在になっているようで寂しい思いをした。

一方、谷干城は翌年の西南戦争において、西郷軍から熊本城(鎮台)を死守した英雄となり、その後華々しく生きた。

二人は維新東征で、ともに土佐迅衝隊幹部であった。千葉流山で捕縛した新選組近藤勇を板橋に連行して刑に処するさい、土佐代表の二人の強い主張が通り近藤を斬首とした。しかし、二人の運命はその後熊本で分かれた。

今回の資料によって、明治新政府の捨石になった安岡良亮の足跡が浮かび上がった。また、長男雄吉と尾﨑行雄の親交から、安岡家と尾崎家は親子二代にわたって深い付き合いをしていたことがわかった。

なお、安岡家においては、雄吉、秀夫兄弟の姉に芳(よし)と英(ふさ)もいる。

芳は桑原戒平に嫁した。戒平も維新東征に参加後、良亮に従い熊本へ。神風連の乱では難を免れ、県令代理として後始末にあたり、翌年には西郷軍とも戦った。

戒平は中村に帰り幡多郡長を務め、さらに土佐藩事業の払い下げを受け同求社を立ち上げた。明治18年、「弥生新聞」(帝政派)読者人気投票「土佐十秀」の「商法家」部門で一位になるなど県下の注目を集めたが、すぐに事業は破綻。再び東京へ出て北豊島郡長、小笠原島司、台湾新竹支庁長などを歴任した。

秋水の妻師岡千代子はその著「風々雨々」の中で「如何にも尊大なこの人(戒平)だけは、何時までも秋水を洟垂れ小僧扱ひにしてゐた」と書いている。

戒平も秋水母多治の従兄であり、実弟道一は秋水母の実家小野家養子となった。道一は兄のあと幡多郡長を務め、さらに県会議員(帝政派)に、議長にもなった。

道一の妻が英である。道一も兄の事業破綻のあおりを受け上京。その家に独身時代の秋水が居候している。

このように、幸徳、安岡、桑原、小野は同族として、幸徳秋水の生涯のいろんな局面で絡み合っている。今後もこの絡みの糸をほぐしていきたいと思っている。(終り)


< 参考文献 >

田中全 「安岡良亮とその一族」(「土佐史談」264号、2017年3月)

同 「安岡良亮とその一族(下)雄吉、秀夫、英」(「文芸はた」3号、2017年12月。ブログ「幡多と中村から」2018年1月17、19、21日に転載。)

同 「桑原戒平」(「文芸はた」5号、2018年12月。同前ブログ2019年1月8、9、10日に転載)


「土佐史談」270号
2019年3月 所収

 

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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