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秋水餅

中村の和菓子店、右城松風堂に秋水餅という菓子がある。もちろん幸徳秋水にちなんだ名前だ。

右城松風堂の看板商品は筏羊羹(棒状の羊羹を筏の形に紐でつなげている)である。空港や駅、道の駅など、県内あちこちに置いてある。中村を代表するお菓子だ。

もう一つ、鮎最中(アユの形)も有名。筏羊羹と鮎最中のセットがよく売れているようだ。四万十川がいまほどに有名でなかったころからある商品だ。

それらに比べて、秋水餅はどれだけ知られているだろうか。大逆事件関係者などは知る人ぞ知るで、秋水墓参にみえた方などは記念に買って帰るようだし、私も関係者への手土産などに使っている。みんなに喜ばれる。

しかし、一般には宣伝をしない地味な商品であるから、市民の間でもそんなに知られていないのではないかと思う。

そもそも店のルーツはいつごろなのか。4代目という今の女性店主に聞いてもはっきりしたことはわからない。昭和21年の南海地震で記録が焼失したという。

ただ、はっきりしているのは、右城(うしろ)という珍しい姓は、高知県内でも県中央の山間部、嶺北地方と言われる長岡郡本山町にしかないこと。お店の古い墓もそちらにあるという。

おそらく、明治のいつごろか、嶺北から中村に何かの商売でやってきて、そのまま居ついたということではないかという。

秋水餅はいつごろからつくられているのかというと、これもキチンとした記録がないという。秋水の名前をおおっぴらに使えるようになった戦後であることは間違いないのであろうが。

そんな中、最近、高知新聞の名コラムニストと言われ、秋水や坂本清馬とも交わった中島及が秋水餅について書いている文章を見つけた。昭和30年8月、「県民クラブ」(高知新聞発行)に書いたエッセイ「「秋水餅」に寄せて」である。(鍋島高明編「中島及著作集 一字一涙」2014年高知新聞社刊所収)

これによれば、中村の幸徳富治から売り出されたばかりの秋水餅を送ってきた、また富治は堺為子(堺利彦夫人)にも送ったと、書いている。とすれば、秋水餅は昭和30年の、このころ商品化されたとみて間違いないだろう。

菓子には「幸徳秋水小傳」なる栞がついており、冒頭「民主人民政府の人柱にあがった革命家幸徳秋水は・・・」から、秋水の生涯を長々と解説しており、末尾は「大逆事件は当局のデッチアゲ」と、秋水への熱い思いに溢れている。

秋水餅をつくったのは、店が秋水ゆかりの自由亭跡地(自由民権家たちが集まった演説会場)に建っており、また秋水墓にも近いからだとも書いている。

現店主によれば、このころの店の主人は父の右城金喜さん(大正6年生れ、平成3年没、73歳)さんで、郷土史家上岡正五郎氏と相談しながら文章を書いたという。

商品も最初のころは、普通にあるようないわゆる餅であったが、当時は包装資材もなく、日持ちがしなかったことから、40年ほど前から、いまの形にしたそうだ。

いまのものは、写真のとおり。小さく切った羊羹と餅を、白い米の干菓子で上下はさんでいる。干菓子は四万十川のアオノリ入りと2種類ある。餅というより、形はクッキーとう感じ。上品な菓子である。1ケ140円でだから決して安くはないので、お茶菓子として、じっくり味わいながら食べるといいと思う。包装の唐草のような模様は、特に意味はないそうだ。

お店は幸徳秋水を顕彰する会会員になってくれている。店には、機関誌「秋水通信」や販売用の「秋水読本」「絶筆色紙」も置いてくれている。秋水墓の掲示板にもそのことを書いて、誘導している。

金喜さんは、1971年、当時の中村市が「秋水刑死60年記念幸徳秋水展」を開いたさい、所蔵の秋水書と堺利彦書を貸してくれたいう記録が残っている。

現店主にそのことを聞いたが、その書はいまどこにあるのかわからないので、探してくれるという約束になっている。

今年の秋水桜を観る会(3回目)は、3月30日におこなった。隣の裁判所庭から秋水墓を包むように枝を伸ばして咲く桜を、われわれは秋水桜と呼んでいる。

今年の参加者には秋水餅を配った。秋水桜の下で秋水餅を、みんなおいしそうに食べていた。

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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