FC2ブログ

市立愛育園の歴史(3)

愛育園を青年団がつくり運営をしたのは、南海地震の復興途上、行政側に子どもの面倒までみる余裕がなかったという緊急事態の中でのことであったから、いずれ落ち着いてきたところで、運営を町に移管することは既定路線であり、その後中村町に移管された。子どもの面倒をみていた女子部員の多くは町職員として採用された。

昭和29年(1954年)、中村町は周辺10町村と合併し中村市になった。さらに、平成17年(2005年)西土佐村と合併し四万十市になった。

この間、昭和56年、敷地が手狭になったこともあり、新たに区画整理されたすぐ近くのいまの広いところに移転をした。

市内の保育所は具同、古津賀など地名をつけた名前が大半(もみじ、青木は木の名前)で、「・・・保育園」となっている中で、「愛育園」が異色をはなっているのは、こんな歴史的背景があるからである。

思えば、戦後まもないころ、幡多の青年団が果たした役割は大きかった。高知県の中でも、いや全国の中でも、幡多郡の青年団の活躍は際立っている。

共励会と称した定期的な勉強会を開いて方針を決め、文化行事、スポーツ大会、各種社会奉仕や改革活動に取り組んだ。

中村青年団から、幡多、高知県へと連合組織を拡げ、いずれも初代団長になった兼松林檎郎の名前は有名である。林檎郎が、いつも訴えたのは「団結すれば立ち、分裂すれば倒れる」であった。

幡多郡青年団は、林檎郎の提唱で学校もつくった。幡多公民学校で、正式名称は「幡多郡連合青年団立 幡多公民高等学院」。戦後の混乱の中、向学心があっても経済的事情で高校へ行けない青年のために、授業は毎月1週間、年限3年であった。場所は、いまの中村病院のところ(元兼松病院跡)。国から認定を受けた正式の学校であった。

20161226084800ccb.jpg
 幡多公民学校前で

林檎郎の功績を称える顕彰碑が為松公園にあがる途中に建っているのをご存知の方も多いであろう。

兼松林檎郎については、青年団の財政を支えた太陽館(澤田寛)の役割と併せ、以前、このブログに書いているので、詳しくはこちらを読んでいただきたい。

  兼松林檎郎 → http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-308.html
  青年団と太陽館 → http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-353.html

幡多は青年団運動の中で、兼松林檎郎だけでなく、地域を動かす多くのリーダーを生んだ。中村は、長谷川賀彦(市長)、田頭文吾郎(県議)、清水は矢野川俊喜(市長)、大方は小野川俊二(町長)、西土佐は中平幹運(村長)、など。

その多くの方は、先に紹介した『青春の軌跡―幡多郡連合青年団活動の記録』の編集委員としても名を連ねている。

この中の中平幹運さんは、西土佐を代表する青年団運動指導者であり、旧津大村青年団長のあと幡多郡連合青年団長も務めている。兼松林檎郎を熱く尊敬をしていた。「記録」に投稿し、座談会でも発言をしている。すでに故人だが、今回の事態を憂えていることだろう。

201906271432471e0.jpg   20190627143258fd8.jpg
   記録編集委員      中平幹運さん

愛育園は、幡多郡の青年団運動が残した血と汗の結晶であるとともに、南海地震の被災からの共助、支え合いの復興のシンボルである。そうした意味で、中村の、そして幡多のわれわれが忘れてはならない「歴史遺産」でもある。

次の南海地震が近づいており、その対策が急がれている中、なんと四万十市が過去の教訓のシンボルを、いまなくしてしまおうとしている。

これでは、四万十市は市民の命を本当に守ろうとしているのか、疑われてもしょうがない。行政不信につながってしまう。

愛育園をなくしてはならない。四万十市は公的保育を継続し、市の将来を担う子どもたちの保育に責任をもたなければならない。

四万十市の公的保育放棄方針の見直し、撤回を求めたい。(終り)

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR