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小野道一(3)

3. 再び上京、不遇の晩年

財産のすべてを失った道一は家族を連れて再び上京。旧友杉浦重剛らの経営する日本新聞に職を得た。日本新聞の社主は陸羯南であったが、杉浦は設立メンバーの一人であり、大学南校同窓であった。

当時秋水は独身で中江兆民の書生をやりながら国民英学会へ通学していたので、神楽坂の小野借家に同居することになった。

戦後、岡崎輝が書いた「従兄秋水の思出」によれば、道一と秋水は「党派は違ふけれども心安くしてゐた」が、秋水の軟文学好きに対して堅い学問をしてきた道一は「汝は極道ぢや」と叱った。秋水の生活態度には厳しかったようだ。

明治二十四年、道一は日本新聞をやめ、金沢郵便局長になる。逓信大臣となった後藤象二郎の推薦によるものであった。前年娘の輝がジフテリアにかかり回復が遅れていたことから、単身での赴任となった。

しかし、道一はその年十一月腸チフスの大患に。妻英は娘二人(武良、輝)を連れてかけつけ、そのまま二年間金沢に残った。その後、東京に戻り、麻布市兵衛町の借家で再び秋水と同居。しかし、道一の体調は戻らず家で療養、家計は英が女子塾を開き支えた。

そして、輝「小野英子年譜」によれば、明治二十八年八月、道一は病気療生のため伊田の小野家に嫁いでいた妹仲のもとへ帰る途次「急死」とある。

輝「従兄秋水の思出」では、「其年八月、私たちの父が極めて不遇の中に急死した」とある。いずれも死因など詳しい状況は書いておらず不自然である。

これについては、輝の孫の岡崎悦明氏(豊中市在住)によれば、道一は神戸摩耶山麓で縊死したのだという。神戸から高知行の船に乗るつもりだったのだろうが。

輝は晩年、豊中から摩耶山の方角を見ると涙が出ると言って悲しそうにしていたという。道一戸籍を確認してもらうと「明治廿八年九月廿五日 兵庫縣於死亡ス」と書かれていた。(九月は死亡確認日か)

自殺記事が当時の新聞に出ているかと調べたが、神戸の新聞には出ていなかった。高知の当時の新聞は戦災で焼け、残っていなかった。

伯父道一の自殺は秋水にとって衝撃であった。秋水は後の明治三十七年平民新聞に書いた「予は如何にして社會主義者となりし乎」の中で、その理由に自分の境遇と読書(学問)をあげ、境遇の一つに「維新後一家親戚の家動衰ふるを見て同情に堪へざりし事」をあげている。岡崎輝は、これは道一の死のことであると書いている。

道一は当時「かっけ」にかかっていたという話が伝わっている。病気と生活困窮を苦に自ら命を絶ったことが考えられるが、それだけが原因なのだろうか。ほかにも追い込まれていた何かがあったのではないか。秋水はそこに社会の不義、矛盾のようなものを見たのではなかったのか。 

私はそんな道一に対し、同じ事情で中村を出て東京にいた兄桑原戒平はなぜ手を差し伸べなかったのか、兄弟間で行き来がなかったのではないかと推測をし、そのことを本誌五号に書いた。しかし、その後桑原家に残る古い写真の中に家族同士の交流を示すものが出てきたことから安堵した。 

それでも道一を救えなかったのは、当時兄は小笠原島司として東京を離れていたというような事情もあったのではないかとも思ったりする。

道一の妻英は周りからの援助の手(谷干城など)を断り、娘二人を連れ千葉館山で教員になり自立。後に日露戦勝記念として中村に最初にできた幼稚園の初代園長として迎えられ、故郷に帰ってきたことは本誌三号に書いた。

道一の死後、小野別家に嫁いでいた長女達の三男行守を次女武良の養子として籍に入れ、家を継がせた。

秋水は明治三十九年、最後の里帰りをし、クロポトキンの「麺麭の略取」を翻訳したさい、当時中学生であった行守に筆記の手伝いをさせた。この話を上林暁が聞いて、小説「柳の葉よりも小さな町」に書いている。

行守は陸軍士官学校出。京都帝大、英国留学を経て兵器工学の権威となった。満州関東軍少将の時、牡丹江でソ連に抑留され、昭和二十二年八月、ハバロフスクで病死した(五十五歳)。その子孫はいま関東方面にいると聞く。
 
小野雲了以下一族の墓は羽生山にあったが、のちに太平寺に移された。しかし、いまは撤去され跡形もない。(終り)


参考文献 文中紹介以外に、上岡正五郎著・小野俊作編『小野家一族之系譜』(私家本、昭和五十八年)


「文芸はた」6号
2019年7月発行

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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