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秋水を生んだ風土と人々(1)「土佐ゆかりの偉人」

1. 「土佐ゆかりの偉人」 

高知城歴史博物館裏口前、NTT西日本高知支店壁際「土佐ゆかりの偉人」看板(パネル)にこの四月から幸徳秋水が登場した。

この看板はNTT西日本が約二十年前設置し、最初十二人から何度か追加。人選は自ら行ってきたが、今回はじめて高知城博が監修し、五人追加、三人撤去し十八人になった。

追加は、秋水のほか中江兆民、小野梓、紀貫之、義堂・絶海(二人セット)、撤去は見正院(山内一豊妻)、坂本乙女(龍馬姉)、大町桂月。タイトルも「土佐の」から「土佐ゆかりの」に変えた。

妥当な入れ替えであると思う。ただし、「偉人」を「人物」に変えてはとの提案(私もそう思う)にはNTTが応じなかったという。他十三人は直接ご確認されたい。

高知城歴博の「監修」ならば実質県のお墨付き。幸徳秋水の認知は遅きに失した観はあるが、安堵している。師の兆民先生もあわせて。

今回の認知は改元の年だけに重い意味がある。

明治四四(一九一一)年、秋水ら二四人が死刑判決を受けた罪名(十二人は無期懲役に減刑)は「大逆罪」(旧刑法七三条)。天皇、皇族に対して「危害ヲ加へ又ハ加エントシタル者ハ死刑に処ス」と規定されていた。

戦前国家では天皇は神であり絶対君主。全ての権力は天皇に集中。軍隊は「皇軍」であり、「臣民」は有無を言わさず戦争に動員された。

天皇中心の国家体制=天皇制は戦後も「象徴」として温存された。その一つが元号である。

秋水は「思うに、百年ののちだれか私に代わって言ってくれるものがあるであろう」と言い遺して絞首台にのぼった。

その百年はすでに過ぎたが、あの時代に秋水たちが提起した問題や、彼らの首をくくった社会構造のようなものは、いまだ根本は変わっていない。秋水はまだ元号が?と嘆いていることだろう。

秋水は明治四年、中村に生まれ、自由民権の空気を吸って育ったことでは土佐の多くの民権家たちと共通をしているが、自由・平等・博愛から非戦・平和へ、さらに社会主義、無政府主義(アナーキズム)へと思想を深化させていった稀有な存在である。

秋水は「余は如何にして社会主義者となりし乎」(平民新聞、明治三七年)において「境遇」と「読書」をあげ、境遇は土佐に生まれたことのほか、「維新後一家親戚の家道衰ふるを見て同情に堪へざりし事」「自身の学資なきことの口惜しくて運命の不幸を感ぜし事」と書いている。

秋水は平民(商家)の出で、複雑な家庭環境で育つ。中村という独特な風土と歴史を背景にして。

長じてからの秋水の思想、行動の研究は多い。しかし、三つ子の魂百まで、異色の種を育てた土壌についての研究は地元でしかなしえないことも多いであろう。

同じ土佐でも「秋水はなぜ高知ではなく中村に生まれたのか」。これが私のテーマである。

中村の風土、歴史、人々を考えることで、幸徳伝次郎を秋水に昇華させた中村の土壌を深堀りしてみたい。(続く)

「土佐ゆかりの偉人」看板 1   「土佐ゆかりの偉人」看板2
NTT西日本高知支店前の看板に描かれた秋水

週刊 高知民報連載(全12回)  2019.7.14









 




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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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