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秋水を生んだ風土と人々(2)平民へのこだわり

2.平民へのこだわり

  區々成敗且休論
  千古惟應意氣存
  如是而生如是死
  罪人又覺布衣尊

こまごまとした成功失敗について、今あげつらうのはやめよう。
人生への意気を捨てぬことこそ、古今を通じて大切なのだ
。このように私は生きて来て、このように死んでいくが、
罪人になって、あらためて無官の平民の尊さを覚えることができた。(釈文 神戸大学名誉教 一海知義)

この漢詩は秋水が死刑宣告をされた日(明治四四年一月十八日、死刑執行は一月二四日)獄中で看守に頼まれ書いた絶筆であり、原文は四万十市立図書館が所蔵している。

動揺を微塵もみせず、淡々と死を受け入れ、明鏡止水の心。他の十一人も同じであった。

昭和五八(一九八三)年、秋水刑死七十周年記念事業として同実行委員会は中村の為松公園にこの絶筆碑を建てた。(幸徳秋水を顕彰する会の結成は二〇〇〇年)

碑の裏面には秋水研究家であった伊野町生まれの塩田庄兵衛先生による「秋水・幸徳傳次郎の略歴」が刻まれている。

除幕式(一月二四日)の夜半、何者かが(右翼団体と思われる)この碑文にセメントを塗ったが、発見が早朝であったことから、すぐに洗い落とし、事なきをえた。

一條家の時代、中村の防塁であった為松城跡につくられた為松公園は桜の名所である。山上であることから、高齢化等の影響もあり最近登ってくる市民は少なくなってきているので、昨年度、幕末維新博の一環として、絶筆碑前の道を拡張舗装等し、近くの市立郷土資料館もリニューアルし、同「博物館」に模様替えした。市外からもぜひお出でいただきたい。

秋水絶筆漢詩の結びにある「布衣」は、官服に対して庶民着用の衣服のことで、転じて「平民」の意味である。

秋水は最期に、平民であったことへの納得と満足を書き残している。

秋水は明治三六(一九〇三)年、日露戦争に反対し非戦論を唱え、堺利彦、内村鑑三とともに萬朝報を退社。堺と二人で平民社を立ち上げ、週刊平民新聞を発行した。

その創刊宣言において、自由・平等・博愛が人間社会の「重要三大要義」とし、「人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す」と表明。(併せて、平等のために社会主義、博愛のために平和主義)

平民社、平民新聞、平民主義と、秋水は終生「平民」にこだわり続けた。「平民」は秋水の思想の根幹をなす言葉であり、デモクラシーの訳語としても使用している。

秋水は中村の平民の家、商家(薬種業、酒造業)俵屋に生まれた。だから、自らの出自にこだわったことは間違いないであろうが、ただそれだけではない。

それには中村の平民=町人がどのように誕生・形成をされてきたのか、その歴史を辿らなければならないし、またそれを背景にした幸徳家の複雑な家庭環境、親族構成から説明しなければならない。(続く)

秋水絶筆碑(為松公園)
爲松公園 秋水絶筆碑

週刊 高知民報連載(全12回) 2019.7.21


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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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