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秋水を生んだ風土と人々(3)町人のまち中村

3.町人のまち中村

幸徳伝次郎は明治四年、両親にとって六番目の末っ子(二人は早世)として生まれた。

父幸徳篤明は四代俵屋嘉平治を襲名する商家(薬種業、酒造業)であり、母多治は医師小野雲了(亮輔)の娘。母の実家小野家は代々山路村庄屋をつとめた士族格の家柄で、雲了は小野家三男のため中村に出て医師となっていた。

幕末とはいえ士農工商の身分制度が厳然たる江戸封建時代、最下級商人のもとに士族格の娘が嫁ぐことは珍しいことであった。

この異例な縁組こそが伝次郎を悩ませ、身分、階級に敏感な人間をつくりあげていった原点である、と私は思っている。

このような縁組が可能であった背景には中村という町の歴史がある。

一條家、長宗我部に続き、関ケ原合戦のあと、中村を支配したのは山内康豊である。土佐藩初代山内一豊は弟康豊に中村周辺を分け与え、独立した中村藩(二万石、のち三万石)とした。

しかし、元禄二(一六八九)年、中村藩五代直久(大膳)が幕府若年寄に抜擢されたにもかかわらず、これを辞退したことを口実に、将軍綱吉から取り潰された(幕府直轄を経て土佐藩に吸収)。

禄を失った家臣は散り散りになり、武家屋敷は残らず取り壊された。城に代って奉行所が置かれ、以後は上級武士三名が高知から交代で来るのみで、中村には藩直属武士がいなくなった。さらに四万十川氾濫による洪水、火事などの災害も加わり、町は荒廃した。

こうした中村を支え、復興したのが町人であった。宇和屋、俵屋、吸田屋などが町老(年寄)になり、泉州堺における会合衆のような町人中心の自治的運営がなされた。藩もこれを認め、中村の町はいわば特別行政区的存在になった。「中村市史」は、中村が今でも「おまち」と呼ばれ、格の高い響きをもつのは、このためであるとしているが、私も同感である。

商人の間では、和歌、俳諧、絵画等が流行した。こんな雰囲気の中、宇和屋から学者遠近鶴鳴が生まれた。

鶴鳴は商いで京阪に出た際、篠崎小竹(大阪)から朱子学、岩垣松苗(京都)から国学を学び、さらに一條家学問と土佐南学の流れも受け継ぎ、私塾鶴鳴塾を開いた。

樋口真吉(足軽)、安岡良亮(郷士)、木戸明(吸田屋、のち地下浪人に)などはここで学んだ。町人学者のもとに士族の子弟が通った。町人の隠然たる力。鶴鳴の墓は羽生山にある。

秋水の父篤明も俳諧を趣味とする文人であった。商売、文化両面から幸徳家(俵屋)は一目置かれる存在であった。

小野雲了は格式ばかりうるさく貧乏な士族の家より、生活が楽な商家のほうがいいかもしれないとの配慮もあって、長女多治を幸徳家に嫁にやった。(続く)

遠近鶴鳴墓(羽生山)   中村のまち
遠近鶴鳴墓      中村の町
中村羽生山

週刊 高知民報連載(全12回)  2019.7.28


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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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