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秋水を生んだ風土と人々(5)安岡良亮

5.安岡良亮

秋水の母多治の実家小野家は代々山路村庄屋を務め、名字帯刀を許された士族格の名門であった。父雲了(亮輔)は三男のため中村に出て医師になっていた。

小野家は同格の他の庄屋や郷士たちと「ひきつりひっぱりあって」(幡多弁で親戚つながりの意味)いた。その代表格が安岡家であった。

安岡家の祖は中村藩(藩主山内康豊=一豊の弟)の重臣であったが、元禄二年、中村藩改易後は禄を失い、間崎村に移り、郷士になった。

雲了の姉菊は、その後中村に戻っていた安岡良輝(故五郎)に嫁いだ。二人の長男が良亮で、多治の従兄になる。

安岡良亮は樋口真吉らと遠近鶴鳴(町人学者)の塾で学問を学び、幕末幡多勤王運動のリーダーとなった。維新東征には迅衝隊(隊長板垣退助)の第二小隊半隊長として参加、小軍監に抜擢された。千葉流山で捕らえた新選組近藤勇に、谷干城と斬首を命じたことは有名。

良亮は新政府に仕えるため明治二年、家族を引き連れ上京。

弾正台大忠、集議判官、民部少丞から高崎県(群馬)参事、度會県(三重)参事、さらに白川県権令、白川県が熊本県に改まってからの初代県令(知事)となった。

これらの県はいずれも廃藩置県後、政情不安で難治の県とされていたところであり、良亮の人心掌握力を買った大久保利通の任命であった。

良亮には忠実な部下がいた。迅衝隊が甲府進軍のさい現地で馳せ参じて来た尾崎行正で、以後高知県士族となり、良亮に影のようについて来た。東京駿河台の屋敷では離れに同居、その子尾崎行雄(咢堂)は良亮から直々に学問を教わった。行雄はのちに「憲政の神様」と言われた。

熊本では不平士族の敬神党(神風連)が暴発寸前であった。良亮は硬軟両用の融和策を使い効果をあげていた。しかし、廃刀令が出たことでこれを抑えきれず、ついに明治九年十月、斬り込みに遭い命を落とした。

翌年には鹿児島の西郷隆盛も立ったが(西南戦争)、谷干城は熊本城(鎮台)を死守し、英雄となった。迅衝隊の盟友二人の運命は熊本で分かれた。

旧大方町出身のタカクラ・テルに「幸徳秋水の墓に詣づるの記」という小文がある。「小生幼児母より寝物語に聞き申し候安岡熊本縣令惨殺の物語に関してにて御座候。母はその物語の終りに常に申し候ひき。此の安岡懸令の妹(注・従妹の誤り)こそは秋水の母なる人なり」、母は秋水母の遠縁であったと聞いている、と。幸徳富治(駒太郎長男)にも同じようなことを書いた手記(「伯父幸徳秋水」)がある。

テル(高倉)の母美弥(吉田)と秋水母多治の関係については判然としないが、美弥の母智恵が間崎姓であり、間崎姓の本家は安岡家と同じ間崎村の庄屋であったことからではないかと推測される。

神風連の乱当時秋水は五歳。後に中村の出世頭は良亮であったと残念がっていたと、師岡千代子が書いているように、良亮の死は同族親戚に衝撃を与えた。(続く)

安岡良亮


週刊 高知民報連載(全12回) 2019.8.11

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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