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秋水を生んだ風土と人々(6) 安岡雄吉、秀夫

6. 安岡雄吉、秀夫

秋水の生涯を振り返ってみると、同族親戚の出世頭だった熊本県令安岡良亮の死は、当時五歳の伝次郎最初の運命の分かれ道であった。

一つは、良亮は熊本に桑原戒平など同族、同郷人を多く引き連れて行っていたように、将来は秋水も官への道が開けていたであろうにということ。二つは、良亮家族や戒平、小野道一(東京)らが次々に中村に帰って来たこと、である。(桑原、小野について次号以降に書く)

良亮長男の雄吉は慶應義塾に入っていたので東京に残り、妻千賀と下の子どもたちが良亮の部下であった尾崎行正に伴われた。行正は妻と行雄の弟二人を連れしばらく安岡家に同居している。

こうした親戚には秋水と同年代の子どもがたくさんいた。都会帰りのハイカラな子どもたちは安岡家に集まり、秋水も加わり一緒に遊んだ。

安岡良亮の三男に秋水より一歳下の秀夫がいた。秀夫のもとには東京の兄雄吉から、当時田舎にはない珍しい絵本や雑誌が送られてきた。「絵入自由新聞」「団々珍聞」など。

水はこれらを読んで触発された。秋水が中心になって、こども新聞をつくったり、「自由」とか「民権」とか書いたのぼりを手に町を歩いた。早熟な民権少年、自由党かぶれはこうして培養された。

安岡秀夫は、秋水死後の回想記「雲のかげ」にこうしたことを書いている。木戸明の漢学塾にも一緒に通ったが、秋水にはかなわなかったということも。

秀夫はのちに秋水と同じようにジャーナリズム界に入り、福沢諭吉主宰の新聞社時事新報で論説主筆を務めた。しかし、秋水とは対照的に穏健体制派の記者であった。

この違いは安岡雄吉も同じであった。雄吉は官に入ったが、良亮長男であることを看板に政界に転じる。後藤象二郎提唱の大同団結運動に参加、挫折したあと、明治二五年、第二回帝国議会選挙高知二区(幡多郡、高岡郡)に帝政派(国民党)から出馬したが、林有造、片岡健吉の民権派(自由党)に敗れた。(十二年後一回当選)

思想、党派は異なったが、東京においても秋水と雄吉、秀夫の親戚としてのつきあい、交流はずっと続いた。

雄吉は学者肌であり、二度洋行留学。英国ではマルクスも勉強、帰国後、秋水、秀夫を呼んでマルクス主義は日本には合わないと説いた。秀夫は秋水処刑後の骨を拾った。

その後、中村の安岡家はどうなったか。安岡良亮は長男であったが家を出たので、中村の安岡家を継いだのは弟良哲(よしやす)であった。良哲妻は秋水母の妹、嘉弥子。良哲は幡多に初めて養蚕業を導入、郷土の殖産事業に功を残した。

良哲の長男友衛は医者になった。友衛は東京に遊学中、従兄の秋水は最初の結婚をするも、すぐに離縁。相手(西村ルイ)を福島郡山に送り届けるという尻拭いをさせられている。友衛は中村で医師として秋水母の最期に立ち会う。

墓は良亮熊本、雄吉藤沢、秀夫東京多磨霊園。良哲、友衛は中村羽生山だが、現直系子孫は地元にはいない。(続く)

安岡雄吉(後列左)   14.jpg
安岡雄吉 後列左        安岡秀夫

週間 高知民報連載(全12回)  2019.8.25

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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