FC2ブログ

秋水を生んだ風土と人々(7)桑原戒平

7.桑原戒平

桑原家の祖は初代中村藩主山内康豊に従ってきた医師。中村藩改易後は江ノ村に移り庄屋となり周辺に分家。戒平は蕨岡伊才原大庄屋桑原義厚の長男として弘化元年生まれた。

母教は小野家出身で、教の妹須武子は小野雲了の妻となっていたので、その娘多治(秋水母)と戒平は従姉弟になる。

戒平は学問を安岡良亮に、剣術を樋口真吉に習った。維新東征では迅衝隊十二藩隊半隊長差引役、会津で負傷。安岡良亮長女芳と結婚した。

新政府に入り、清国に留学派遣。明治八年、安岡良亮が先に赴任していた白川県(熊本)へ七等出仕。同九年、神風連の乱に遭遇。県令良亮は斬られたが難を免れ、県令代理として事件処理に奔走。翌年も西郷蜂起の西南戦争があったが、収束後中村に帰郷。初代桑原平八(同族)に続き、二代目幡多郡長(明治十三~十五年)になった。

戒平の長男、順太郎は秋水より一歳上。後年、秋水は「順太郎さんを見よ、あんなに大人しうせねばいかんといって、順太郎さんのお陰で何遍母に叱られたか知れん。子供のときには大に順太郎さんを怨んだものだよ。」(岡崎輝「従兄秋水の思出」)と語っている。

戒平は事業意欲も盛旺。親戚縁者から資金を募って同求社を立ち上げた。旧土佐藩貨幣局の事業の払い下げを受け、大阪港路開設、樟脳の輸出等のほか、板垣退助から権利譲渡を受け、田ノ口銅山採掘にも乗り出した。本社大阪、分社高知、中村。

戒平は明治十八年七月、高知の弥生新聞(帝政派)が読者人気投票で選んだ「土佐十秀」の中の「商法家」部門において二百十四票を獲得して一位となった。他は「慷慨家」板垣退助、「理論家」植木枝盛、「画家」川田小龍など、高知の錚々たる顔ぶれの中で幡多から唯一登場。高知市立自由民権記念館に、その記事が展示されている。

しかし、事業はそれこそ「武士の商法」で、たちまち行き詰った。戒平は中村にいられなくなり、家督を弟義忠に譲り、東京へ出た。
事業破綻は親戚縁者に累を与えた。俵屋(幸徳)は同求社に事務所を提供していた。運悪く、その頃、秋水が通っていた中村中学が廃校となり、高知中学に吸収されることになった。しかし、秋水は家の経済状況悪化からすぐには転校できず、安岡秀夫らに一年遅れて高知へ出たが、授業についていけず落第、学校放棄。秋水最初の挫折となった。

戒平には官時代の人脈があった。上京後は北豊島郡長、八丈島島司、小笠原島司から日本統治後まもない台湾新竹支庁長などを歴任。台湾では総督の乃木希典、児玉源太郎に仕えている。

東京では親戚として秋水と行き来があったようで、師岡千代子は「風々雨々」の中で「私が嫁いだころには、最う白髪童顔の好い加減の老人であったが、見るからに何處か剛腹な人であったやうに記憶して居る。如何にも尊大なこの人だけは、何時までも秋水を鼻垂れ小僧扱ひにしてゐた」「さすがの秋水もこれには参って居た」と書いている。

戒平は老いてからキリスト教に入信。大正九年、七六歳で没。墓は晩年暮らした鎌倉にある。(続く)

69587543_375530146712815_2735881802341154816_n.jpg
 桑原戒平

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.1

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR