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秋水を生んだ風土と人々(8)小野道一

8.小野道一

小野は秋水母多治の実家である。小野雲了、須武子の子は娘二人、多治と嘉弥子であった。普通ならどちらかに婿をとるのであろうが、多治は商家幸徳に、妹の嘉弥子は雲了の姉菊が嫁いでいた郷士安岡の次男良哲(良亮の弟)に出し、小野家養子として桑原義厚、教の次男で甥の道一を迎えた。道一の兄は前号に書いた桑原戒平である。

道一は嘉永三年生れ、戒平の六歳下。兄同様、安岡良亮に学問を、樋口真吉に剣術を学んだ。維新後、谷干城に従って上京、大学南校で法律を学んだ。干城、良亮、戒平は維新東征迅衝隊の幹部であったという関係が背景にあったと推測されるが、上京の詳しい経緯や時期等についてははっきりしない。道一はその後も生涯、干城と深いかかわりをもつ。

安岡良亮は新政府入りのため明治二年一家で上京。道一も官に入り、明治三年、東京で良亮次女の英と結婚した。いとこ同士であった。(良亮の長女の芳も桑原戒平妻になっていた。桑原兄弟と安岡姉妹が結婚。)

道一は度會県(三重)、三潴県(福岡)警察部長、鹿児島裁判所、大審院を歴任後、兄戒平と同時期中村へ帰り、兄に続き第三代幡多郡長、さらに県議会議員を四期十年(明治十三~二三年)、第十代議長も務める。明治二十二年、東京で開かれた帝国憲法発布式典には県議会議長として参列している。

一は民権派(自由党)と対立する帝政派(国民党)の領袖であり、一時は国会議員候補として名前があがるほどであった。道一にとってこの約十年間が「華の時代」。

しかし、道一の政治生命は県議会議員を辞職に追い込まれたことで終わる。兄戒平が立ち上げた同求社に協力したことで一蓮托生であった。

道一は県から資金を借り入れたが、事業が行き詰り返済不能に。議会民権派から格好の攻撃材料にされた。

財産のすべてを失った道一は家族を連れて再び上京。旧友杉浦重剛らの経営する日本新聞に職を得た。日本新聞の社主は陸羯南であったが、杉浦は設立メンバーの一人であり、大学南校同窓であった。

当時秋水は独身で中江兆民の書生をしながら国民英学会へ通学していたので、神楽坂の小野借家に同居することになった。岡崎輝「従兄秋水の思出」によれば、道一と秋水は「党派は違ふけれども心安くしてゐた」。しかし、秋水の当時流行りの軟文学好きに対しては、堅い学問をしてきた道一は「汝は極道ぢや」と叱るなど、秋水の生活態度には厳しかったようで、秋水を悩ませた。

明治二四年、道一は日本新聞をやめ、逓信大臣となった後藤象二郎の紹介で金沢郵便局長になる。しかし、腸チフスの大患にかかる。二年後東京に戻り、中央新聞に就職していた秋水と再び同居。

道一の体調は戻らず家で療養していたが、明治二八年八月、療生のため伊田(旧大方町)の小野分家に嫁いでいた妹仲のもとへ帰る途中、神戸摩耶山の麓で縊死。四六歳。神戸から高知行の船に乗ろうとしたのであろうが。

輝は「父が極めて不遇の中で急死した」とだけ書いている。(続く)

小野道一 上岡正五郎「小野家一族之系譜」より
 小野道一

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.8

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
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