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秋水を生んだ風土と人々(9)小野英、輝

9.小野英、輝

明治二八年、叔父小野道一の自殺は、当時二四歳の秋水にとって衝撃であった。

本連載冒頭で紹介したように、秋水は明治三七年、平民新聞に「予は如何にして社會主義者となりし乎」を書いた。そこに自分の境遇と読書(学問)をあげ、境遇の一つに「維新後一家親戚の家道衰ふるを見て同情に堪へざりし事」をあげている。岡崎輝は「従兄秋水の思出」において、これは道一の死のことであり、秋水へ与えた「精神的打撃は甚大」であったと書いている。

輝は道一、英(ふさ)夫婦の三女。当時七歳、東京で同居していた秋水を兄と呼んでいた。

道一は当時「かっけ」にかかっていた。病気と生活困窮を苦に自ら命を絶ったことが考えられるが、ほかにも追い込まれていた何かがあったのではないか。秋水はそこに社会の不条理のようなものを見たのではないか。 

道一の妻英は安岡良亮の次女。周りからの援助の手(谷干城など)を断り、娘二人を連れ千葉館山で教員になり自立。後に日露戦勝記念として中村に最初にできた幼稚園の初代園長として迎えられ、高知県保育(幼児教育)の魁として名を残している。

小野家としては、道一の死後、小野別家に嫁いでいた長女達の三男行守を次女武良の養子として籍に入れ、家を継がせた。秋水は明治四十年、最後の里帰りをし、クロポトキンの「麺麭の略取」を翻訳したさい、当時中学生であった行守に筆記の手伝いをさせた。このエピソードを作家上林暁が聞いて、小説「柳の葉よりも小さな町」に書いている。

英は秋水が東京に戻るさい、「傳次さんよ、今度東京へ行っても亦先のやうな危いものはどうしても書かれんぜ、お母さんはもう七十一ぢゃけん、何時どんなことがあるかも知れんから、お母さんの生きている間に再び牢に入るやうなことをしてはならんぜ」(輝前掲著)と念を押した。

しかし、秋水は中村から船で大阪に出て、親戚の桑原政明の家に泊まってから紀州新宮の大石誠之助のもとに立ち寄ったことで、大逆事件の罠にはめられることになった。

秋水は獄中から母に何度も手紙を書いている。その手紙を母に読んでやるのはいつも、小学校教員になっていた輝であり、母の返事も輝が代筆をした。

英は晩年は大阪豊中の岡崎家に引き取られ、輝に言われ「八拾余年の思出」を書き残した。幕末維新の頃の中村のまちの人たちの暮らしを伝える貴重な記録となっている。昭和十二年没、八七歳。

輝は文筆に優れ、戦後昭和二二年「従兄秋水の思出」を書いたほか、丘佐喜子のペンネームで「南国新聞」(中村の地方紙)にもたびたび寄稿。昭和四三年没、七九歳。

なお、小野家を継いだ行守は陸軍士官学校出。京都帝大、英国留学を経て兵器工学の権威となった。満州関東軍少将の時、牡丹江でソ連に抑留され、昭和二二年八月、ハバロフスクで病死。五五歳。

小野雲了以下一族の墓は中村の羽生山にあったが、のちに太平寺に移された。しかし、いまは撤去され跡形もない。(続く)

小野英(前)と娘の輝  上岡正五郎「小野家一族之系譜」より
小野英(前)、輝(後)

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.15

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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