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秋水を生んだ風土と人々(10)木戸明

10.木戸明

木戸家の祖は江戸寛永の頃、摂津国吹田から幡多郡佐賀を経由して中村に来た商人。吸田屋と称し中村を代表する豪商となり、俵屋(幸徳)などとともに交代で町老をつとめた。

木戸明は天保五年生れ。父広之助は分家、望んで百姓に転籍後、地下浪人(士分)に列した。母佐和は安岡良輝の妹、安岡良亮と明は従兄弟になる。妻和佐は桑原家から。

は安岡良輝、樋口真吉に学問、武道を習った後二四歳で上洛し岩垣月洲の門に入り国学経書を学ぶ。上洛は三度に及び、江戸の梁川星巌とも親交を深めた。

文久、慶應年間、勤王運動、特に国防、海防活動に没入し、私財を投じて大砲を鋳造、四万十河原で実射後藩に献納。ために「破産勤王」と言われるほどであった。

維新東征には参加しなかったこともあって、安岡良亮、桑原戒平、小野道一らのようには官に入らず、地元後進の教育活動にその後の人生を捧げた。

中村大神宮隣の自宅に家塾遊焉義塾を開設。身分を問わず近隣の子どもたちを集めた。

安岡、桑原を通して木戸家ともつながる商家の伝次郎も入門。「孝経」の素読から始まり、「三国志」、「唐詩選」へ。栴檀は双葉より、八歳にして小野の祖母(須武子)の還暦を祝う漢詩をつくるなど、神童伝説を生んでいる。

秋水の格調高い漢文調の文章は、木戸明に叩き込まれた土壌の上に、ジャーナリストとして時事論説、評論を積み重ねた産物である。

土壌は思想面でも。秋水は絶対主義的天皇制という人民支配システムについては激しく攻撃したが、天皇そのものについての論及はほとんどない。獄中で書き上げた最後の書「基督抹殺論」は天皇のメタフォー(隠喩)との見方もあるが、「日本の名著」とされる秋水「廿世紀之怪物帝国主義」(明治三四年)には、若き頃の書とはいえ「日本の皇帝は・・・戦争を好まずして平和を重んじ給ふ」「自由と平和を重んじ給ふ」というようなくだりがあり、儒教的倫理感の呪縛から脱せていない。

秋水は「日本人の詩には和臭があつて到底彼地の人には見せられんけれども、木戸先生のはその平仄から四聲の配置から唐詩選中の詩にも恥しからぬものがある」と評価していた(岡崎輝著)。

しかし、明治三六年、秋水が新刊「社会主義神髄」を明に贈った葉書が四万十市立郷土博物館に保存されているが、その内容は到底師の理解の及ぶところではなかった。

師岡千代子「風々雨々」によれば、明治三九年夏、夫婦で帰省時、愛弟子を心配する師が訪ねて来て、秋水を説得した。師が帰ったあと、秋水は寂しそうにふさぎ込んでいた。それを見た母多治は「木戸先生は普通の年寄りぢゃもの、わたしゃ伝次郎の味方ぢゃけん」と息子を励ました。

明は中村中学、高知中学でも教壇に立った。高知では濱口雄幸(ライオン首相)、野村茂久馬(土佐の交通王)らを教えた。城山三郎「男子の本懐」では、濱口のことを「雲くさい」と評したと書かれている。

大正五年、八五歳で没。墓は正福寺の秋水隣だが、秋水東向きに対し北向き。頑くなに思想を容認しないかのように。墓碑の撰文は中村の弟子吉松茂太郎(海軍大臣)

大正八年、教え子たちは中村小学校玄関前に銅像を建てたが、戦時金属供出された。戦後、為松公園登り口に顕徳碑を建てた。題字は野村茂久馬。(続く)

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    木戸明

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.22

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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