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秋水を生んだ風土と人々(11)帝政派の牙城

11.帝政派の牙城

 本連載もあと一回。冒頭に書いたように、私のテーマは「秋水はなぜ高知ではなく中村に生まれたのか」である。

明治四年生れの伝次郎は、同二十年、十六歳の時、中村を出奔し単身上京。自由党林有造の門をたたいたが、保安条例で土佐人は追報された。翌年再び飛び出し、大阪にいた中江兆民の書生になり、その後の運命を決定づけた。兆民から民権思想を学び、秋水の号ももらう。

中村が高知と違うのは、元禄二年、中村藩改易以降、城下町でなくなったこと。常駐家老がいた安芸、佐川、宿毛などとも異なる。家臣は百姓同然の郷士や地下浪人に身を落とした。町の運営は実質的に町人の手に。町人が実力をもち、町人の中から学者(遠近鶴鳴)も生まれた。

しかし、町人は世の動きを見るに慎重、穏健である。学問も朱子学で権威に忠実。幕末勤王運動においても、武市半平太の土佐勤王党結成の血判状に加わった者は、樋口真吉をはじめ幡多からはほとんどいなかったように、連携をとりながらも一線を画していた。

明治になり、一時鹿児島の西郷隆盛に呼応する動きを見せたこともあるが、新政府に簡単に懐柔され妥協、服従。明道会という保守的結社をつくっていた。

こうしたグループは板垣退助らの民権派(自由党)に対して帝政派(国民党)と呼ばれていた。この対立は明治前半期高知県政界の基本構図となる。

明治十二年、県議会が開かれたが、その勢力は高知から東は民権派、西の高岡郡、幡多郡は宿毛を除き帝政派が強かった。中でも中村は帝政派の牙城であった。

中村にも民権派はおり板垣を迎え、十五歳の伝次郎が歓迎の辞を述べたこともあるが、少数派であった。

この連載で紹介してきた母方親戚筋の安岡、桑原、小野、木戸はみな帝政派。小野道一はその領袖として県会議長までつとめた。彼らはみな士族格。母多治が小野の出であったためである。

幸徳家は商人で経済力があったがゆえに、小野家との異例の縁組をした。しかし、明治になり四民平等になったとはいえ、士農工商の身分の差は厳然として残っていた。たとえ相手が郷士であっても。

木戸明の塾で伝次郎は、同年代の親戚の子らの中で飛び抜けて成績優秀であった。しかし、彼らは士族の子。自分は商人の子で「町の子」と呼ばれた。なぜ親戚なのに自分だけそう呼ばれるのか理解できない。幼き伝次郎の中に巣くったコンプレックスのようなもの。そんな反発が伝次郎を早熟な自由党シンパにしてしまったのではないか。

しかも伝次郎は二歳にして父亡き子に。卑屈な気持ちも加わっていたのではないか。

このようにして、中村という歴史風土の中で、「平民」にこだわる、身分、階級に敏感な少年が育ち、中江兆民との出会いに至るのである。(続く)

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 幸徳秋水(12歳頃)    母多治

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.29  

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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