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戦後幡多青年団運動と愛育園(1)

いま青年団という言葉は死語に近い。その実態がほとんどないからである。

戦後間もないころから昭和三十年代にかけては、どこにも青年団があり、地域集落において重要な役割を果たし、大きな存在感をもっていた。

中村の青年団は昭和二十一年の南海地震からの復興を支えるため自力で愛育園(保育所)をつくり、子どもの守りをしている。愛育園はその後、中村町→中村市→四万十市に移管されたが、いま市立保育所再編の中で存続が危ぶまれている。

百年に一度の南海地震がまた近づいているいま、共助、支え合いのシンボルであり「歴史遺産」とも言える愛育園の歴史を振り返ることにより、戦後青年団が果たした役割について考えてみたい。

戦前においても各種青年組織があったようだが、その代表者の多くは村長や名望家であり、戦時翼賛体制に組み込まれていったように、青年の自主的な組織とはいえなかった。

青年の自主的、自律的組織としての青年団がつくられたのは戦後である。

昭和二十年八月十五日は、抑圧されてきた人々にとっては解放の日。荒廃、混乱、混沌の中にあったが、青年にとっては新しい時代の幕開けであった。

 幡多でいち早く立ち上がったのは中村の青年。早くも九月一日、女学校講堂において中村町連合青年団結成総会を開き、総勢二百名の青年男女が参加。

 今回全国的な資料を調べた。敗戦直後の混乱期ゆえに詳しい記録は見つからなかったが、市町村単位の青年団の結成としては、敗戦からわずか十七日後の中村が全国で最も早かったのではないだろうか。

 団長に選ばれたのは兼松林檎郎。大正六年生れの二十七歳、中村小姓町、現・中村病院のところにあった兼松医院の開設者三郎の三男であった。

 連合青年団の「連合」は、中村町内には、町分のほか右山、不破、角崎などにも、小さな地域単位の青年団があったことを意味している。

青年は新しい知識の吸収に飢えていた。最初にゲーテ、ヘーゲル、カントなどの読書会を開く。演劇会「出家とその弟子」では六百人を集めた。合唱団、美術会も結成。体育大会は小学校校庭で開いた。青年の笑顔と歓声が空にこだました

幡多郡下は当時三十二町村。中村に続いて燎原の火のように、次々に青年団が結成されていった。昭和二十一年五月、幡多郡連合青年団も結成され、兼松林檎郎が団長に就いた。文字通り「幡多は一つ」であり、協同、連帯の輪が急速に広がっていった。

その最中におこったのが昭和二十一年十二月二十一日未明、南海地震。被害は中村に集中。四万十川デルタ上で地盤が弱いことから、ほとんどの建物が倒壊、火災も発生、壊滅状態となった。町内の死者二七三名、負傷者三三五八名に及んだ(中村市史)。

その時、林檎郎は高知市にいた。すぐに県庁に掛け合い、救援物資を送ってもらうよう手配。しかし、道路は寸断、海路下田港に揚げることになった。中村への搬入は下田、中村の青年団が一手に引き受けた。トラック、大八車、人海戦術で。幡多郡下青年団は次々に救援隊を派遣し、ガレキの撤去、後片付けなどを手伝った。

復旧作業において、じゃまになるのは子どもたち。親は子どもにかまっておられない。行政(町)も生活復旧優先。中村には当時町立幼稚園が一つあったが、再建どころではなかった。そこで頼まれたのが青年団。子どもの守りをしてくれないかと。

青年団は女子部員が中心になって一條神社に子どもたちを集めた。百五十人ほどいた。青空保育である。

しかし、一條神社は山の上で危険ということになり中村大神宮へ引っ越し。ここで「愛育園」の看板を掲げた。意味は愛(いつくしみ)育(はぐくむ)であろうが、命名のいきさつは記録に残っていない。

大神宮でも青空保育。夏のあつけで一人の子が死ぬという事態になった。急ぎ屋根付きの建物が必要ということになり、土地を物色していたところ、藤娘酒造の山本充さんが子どもたちのためにと中村小学校北側の土地(いま清水バレエ団のある一角)を格安で譲ってくれることになった。

田んぼを埋め立て、瓦葺の保育所を建てようとしたのだが、問題はカネがない。町もカネがない。自分たちで調達するしかない。そこで奮闘したのが当時の初代園長本田悦造(よしなり)。復興途上の中村の実情を訴えるために上京し、県選出の国会議員を中心に寄付を募ることを思いついた。(続く)

「文芸はた」7号所収 
2019年12月刊

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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