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森長英三郎

1月15日は大逆事件の最後の生き残りで、1961年、再審請求裁判に立ち上がった坂本清馬の45回目の命日であった。幸徳秋水を顕彰する会の役員など10名で秋水墓と同じ並びにある清馬墓で弔った。正福寺住職に読経をあげてもらい。(24日秋水刑死日には、秋水・清馬合同墓前祭を開く)

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これに合わせるように、昨年末、田中伸尚著『一粒の麦死して 弁護士・森長英三郎の「大逆事件」』(岩波書店)が出版された。森長英三郎は、大逆事件再審請求裁判の主任弁護士である。

清馬は秋水の自称門人であり、今でも師の影に隠れたままである。しかし、清馬が裁判に立ち上がらなかったならば、大逆事件の真実がいまほどに解明されることもなく、闇に葬られていたことであろう。清馬が果たした役割は大きかった。

しかし、表の主役は清馬であったが、裏方の主役、屋台骨の柱は森長であった。森長なかりせば、裁判は成り立たなかった。

最終的に請求は却下されたが、日本近現代史上、最悪の思想弾圧という国家犯罪を問う裁判を6年半にわたってリードし、完遂したことに大きな意義があった。

森長は裁判終結後も事件にかかわり続けた。裁判支援組織である「大逆事件の真実をあきらかにする会」の事務局長として、真相解明を続け、国家の罠にはめられた人たちの家族、親戚を含むすべての犠牲者の名誉回復に取り組んだ。この会はいまも続いており、私も会員としてかかわりをもっている。

本書は、これまでベールに隠れていた部分が多い森長の生い立ちから、生涯をたどりながら、なぜ森長がこれほどまでに大逆事件に精力をつぎ込み、執着したのか、その生きざまに迫ったものである。

森長は1906年(明治39年)、徳島県の山の中で生まれた(名西郡神山町)。小学校の成績はよかったので、県立農業学校まで行かせてもらった。しかし、家の経済事情から、それ以上は望めなかったので、山林労働で金をため、自力で東京へ出た。

自分でのちに「浅草山谷方面で最底辺の放浪生活をする。放浪中、マルクスからカブキまでの雑学を学ぶ」と書いているように、苦学しながら日本大学に入り、弁護士の資格をとる。

著者は「戦争と不況をかかえた資本主義社会がつくりだす不条理や理不尽にあえぐ、自身を含めた底辺に生きる人々に出会ったこと」で、土に源流をもつ「沈黙せざる精神」「骨太の自由主義」を全身に刻み込みながら、人権弁護士として道を切り開いていった、と書いている。

駆け出しのころ、先輩弁護士布施辰治との出会い、宮本顕治スパイ査問事件の弁護(妻の宮本百合子とのやりとり)など、戦前の活動については、私は本書で初めて知った。

著者は、すでに大逆事件関係の本をたくさん書いている。「大逆事件 死と生の群像」「囚われた若き僧 峯尾節堂 未決の大逆事件と現代」「飾らず、偽らず、欺かず 菅野須賀子と伊藤野枝」など。これらは、事件の被告人とされた人物だけでなく、事件に巻き込まれていった家族、親戚を含む周辺の人々の「みちゆき」を追っている。

こうした追跡のなかで、弁護士森長英三郎は避けて通れぬ巨象であった。しかし、その巨象は、自分のことは隠して語らず、書き残していない。

森長は1966年没(77歳)。著者は、法政大学に保管された資料、書簡類を一つ一つ読み開きながら、生地徳島県にも足を運ぶ等、残り少なくなった関係者への聞き取りを重ねることによって、ぼやけた人の影のピントを合わせを繰り返し、森長の輪郭をはっきりさせている。これも森長の仕事と同じように、執念の作業であった。

書名の「一粒の種死して」は、森長が事件の遺族を励まし、苦しんで死んでいった人たちの霊を弔うための「墓誌」として書いた「風霜五十年」の表紙裏に刻まれた言葉、聖書ヨハネ伝の中の一説「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」からとっている。

著者のこの間の一連の仕事は、森長が残した種を受け継ぎ、育てようとするものであると思う。大逆事件に関心をもつ者の必読の書である。

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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