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安保法違憲訴訟

3月24日、高知地方裁判所で安保法違憲訴訟の判決があり、原告の主張は退けられた(請求棄却)。

2015年9月国会通過、2016年3月施行された安保法制は、それまでは憲法に反するとして自民党政府も認めてこなかった集団的自衛権を、安倍政権が憲法解釈変更をおこなった。

3年前、これは断じて認められないとして、高知県内に住む32人が国を提訴した。私も原告の一人になtった。

安保法ついては、多くの憲法学者も違憲であると主張した。しかし、訴訟となると、安保法ができたことによる被害を具体的に示さなければならない。

今後、例えば、自衛隊がアメリカが起こした戦争に参戦し、仮に自衛隊員が死亡したとすれば、その遺族ならば安保法の被害者として国を訴えることができる。しかし、現時点では、そんな具体的被害は出ていない。そこが裁判を進めていくさいの難しさであり、壁であった。

原告団は、憲法で保障されている「平和的生存権」を盾として、安保法ができたことにより、いつ戦争に巻き込まれるかもしれないというような不安等が高まることにより、心の平穏、安穏な生活が脅かされるということを争点とし、一人10万円の損害賠償を求めた。(金額が問題ではない)

32人はそれぞれ自分の体験にもとづいて陳述した(口頭弁論12回)。高齢の戦争体験者は高知空襲で家族を失ったことで、再び同じような苦痛を味わうのではないかという不安を述べた。

しかし、われわれの主張は裁判長に届かず、門前払いされた。「平和」の定義は、各人の思想信条、歴史観等により異なるものであるから、平和的生存権といっても抽象的なものであり、その具体内容を一律的に確定することは困難である、というもので、憲法判断に立ち入らなかった。

この判断は、争点回避という国側の作戦に沿ったものである。現に国側は原告の主張に対する反対尋問に口頭ではいっさい答えず(発言なし)、文書を出すだけという、不誠実なものであった。

安保法違憲訴訟は全国でおこされている。今回の高知地裁判決は5カ所目の判決だが、すべて憲法判断は避けられ、敗訴にされている。

三権分立は建前であるが、いまの日本では司法は国に従属させられていることを如実に示している。本件、控訴するかどうかは、これから相談して決めることとしている。

なお、原告の法廷陳述は代表者数名がおこない、私は以下の陳述書を提出した。


田中全 陳述書

1 私は,この訴訟の原告であり,平成21年から25年までの間,四万十市長を務めていました。以下,個人の立場だけではなく,元首長という立場から,安保法制に対する思いを述べます。
 安保法制に対する思いの源として,私がライフワークと考えて調査等を行っている満州分村移民の問題がありますので,まず,これについて述べます。

2 私の故郷は,旧幡多郡八束村,現在の四万十市実崎です。幼少期より,いまは同じ四万十市となった旧幡多郡江川崎村を始めとする北幡地域(幡多郡北部)から多くの人々が移民として満州に渡ったと聞いていました。
  一橋大学経済学部に入学した私は,中村政則教授のゼミに入り,日本近代史,特に農業史を専攻するうち,満州分村移民についても研究を行いました。
  分村移民とは,日本国内の村を母村とし,満州にその分村をつくり,村民の一部を移住させるというものです。これは,当時日本の植民地であった満州を支配するための農業移民政策(満州開拓団)の一環として,行政主導により行われたものでした。すなわち,満州における日本の支配を維持するためには軍隊(関東軍)だけでは数が足りず,開拓農民をも動員して治安維持等にあたらせようとしたものの,思うように満州への移民者数が増えなかったため,分村という名のもとに,国が県ごとに,県が村ごとに分村に行く戸数を割り当て,移民者を強制的に確保しようとしたのです。
  そして,北幡地域では4つの村が分村移民を行い、多くの犠牲者を出したことを知り、その調査を行い、卒業論文にまとめました。以来,満州分村移民の研究は私のライフワークとなっています。

3 私は,大学を卒業した後は,農林中央金庫に就職し,全国を転勤しましたが,満州開拓団にはずっと関心を持ち続け、文献をあたるなどしていました。昭和56年1月から3年間は高知支店に勤務した際には、再び北幡に足を運び、満州からの引き揚げ者から聞き取りを行うなどし,昭和58年9月から11月にかけ,職場の互助会の機関紙に満州移民の紹介記事を投稿しました。
  また,市長を務めていた平成22年には,旧江川崎村の引き揚げ者の人々と一緒に私費で満州(現中国吉林省)の旧開拓地を訪ね,亡くなった方々の慰霊をしてきました。
  現在も,満州開拓団についての話をしたり,展示会の協力をしたり、満州引き上げ者である宮尾登美子氏が満州での生活を綴った「朱夏」「仁淀川」という作品の電子版に解説記事を寄稿したりする等の活動を行っています。

4 昭和11年から送出が始まった満州開拓団では,全国から約32万人が満州に渡りました。高知県では全国で10番目に多い約1万人が渡りました。特に幡多郡からが多く,昭和17年から20年にかけて,旧江川崎村,旧十川村,旧津大村,旧大正村から,合わせて約1400人が,分村移民として満州に渡りました。
  彼ら、彼女らの中には,自らの意思に反してやむなく移住に応じた人も多くいました。特に,旧十川村(現四万十町)では,移住に応じる人が少なかったため,くじ引きで移住者を決めた集落もありました。村は,国策には逆らえず,いやがる村民も強制的に満州に送ったのです。
  こうして送られた移住者の人々は,日本の敗戦により,満州に取り残されました。引き揚げは困難を極め、地元民の復讐・略奪による殺害や病気や飢餓等により,多くの犠牲者を出しました。北幡地域からの開拓団では全体で半数以上,旧江川崎村,旧十川村では7割以上の人が亡くなりました。
  辛うじて引き揚げてきた人々も,「満州もん」と呼ばれて差別されるなど,苦しい生活を余儀なくされました。

5 平成28年8月,テレビのドキュメンタリー番組で,長野県河野村の分村移民が取り上げられました。それは以下のような内容です。
  <同村の若き村長であった胡桃澤盛氏は,当初は分村移民に消極的であったものの,それが国策である以上従わなければならないと次第に考えを改め,村民に頼み込んで,20数戸を満州(分村)に送った。しかし,日本が敗戦を迎えた翌日,分村の人々は集団自決した。母親が,我が子の首を絞めて殺し,次に,大人同士で首を絞めて殺していった。終戦の翌年,責任を感じていた胡桃澤氏は,自宅で首を吊って自殺した。>

6 以上のような歴史からいえることは,ひとたび戦争になれば,軍人だけでなく,国民全体が巻き込まれてしまうということです。
  満州引き揚げ者で,今も生存している人は少なくなりましたが,そうした人々は,異口同音に,「戦争は二度としてはいけない。」,「あんな経験を今の人たちに二度とさせてはいけない。」と言います。それは,心の底からの言葉です。
  戦後の日本は,こうした反省のもと,憲法で二度と戦争をしないことを国民の総意として決めて歩んできた…はずでした。しかしながら,憲法解釈の変更などという,国民の総意を代表しない,わずか一内閣の判断で,安保法制が強行制定されたことにより,平和憲法が蹂躙され,日本は再び戦争ができる国になってしまいました。
  それは,満州分村移民の歴史を知り,体験者の声を聴き,戦争は二度としてはいけないという確固たる信念をもっていた私にとって,筆舌に尽くし難い苦しみです。
  特に,首長経験者である私は,「人々が不幸になるようなことをしてはならない」という信念があります。だからこそ,同じ首長であった胡桃澤氏がいかに苦悩したかがよく分かります。安保法制は,国民全体を戦争の被害者に,あるいは加害者にし得るものであり,私のこうした信念からも,絶対に許せません。
  戦争は,かつて,国民を強制的に大陸に送り込み,多くの命を奪ったのです。二度とこういう事態を招いてはいけません。そのためには,憲法違反の安保法制を廃止させなければなりません。その思いで,私は,この訴訟の原告となりました。

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高知新聞 2020.3.25


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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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