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スペイン風邪と安岡友衛

いまコロナで世の中の動きが止まっている。4月15日、厚生労働省クラスター対策班がコロナ対策を何もしなかったならば42万人の死者が出るであろうという推計数字を発表した。

実際は各種対策を講じているので、ここまでの死者が出ることはないだろうが、本気で取り組まないと大変なことになるという警告である。

今回と同じパンデミックの先例にスペイン風邪がある。今から100年前の1918年(大正7)~1921年(大正10)年、世界で猛威をふるった。

スペイン風邪には当時の世界人口の三分の一がかかり、4,5千万人が死亡したとも言われているが、当時は第一次世界大戦の時期であり、参戦国は情報統制をしたことから、正確な数字はわかっていない。

最初の発生はアメリカ軍だと言われている。当時、スペインは中立国で情報を公開したので、同国の被害がクローズアップされ、不名誉な名前が付けられたようだ。

日本では約40万人が死亡したとされている。今回の推計42万人とほぼ同じ数字だ。流行は3波に及んだ。当然ながら、高知県でも多数の死者が出た。

高知新聞4月14日の「声ひろば」に高知市の76歳の男性が、大正7年11月5日、祖父37歳がスペイン風邪で亡くなり、当時4歳だった父たち残された家族は困窮生活を余儀なくされた、と書いている。

当時、中村の医師であった安岡友衛も妻瀧江をスペイン風邪で失っている。友衛は幸徳秋水より2歳下(明治6年7月1日生)の従弟(いとこ)。父は安岡良亮の弟良哲、母は秋水の母多治の妹嘉弥。

明治41年5月、秋水最後の帰省中、岡山の森近運平が中村に訪ねてきたさい、幸徳家親戚を交えて撮った記念写真の中に友衛も入っている。(前列右より、友衛、運平、秋水)

前列右 安岡友衛、森近運平、秋水 明治41年5月中村で

同じく秋水の従妹岡崎輝(旧姓小野)が戦後書いた「従兄秋水の思出」によれば、秋水が東京で最初の結婚をしたのは、友衛も医学の勉強のために東京に出ていた頃であった。

秋水は相手(西村ルイ)が気に入らず、すぐに実家の福島県郡山に帰した。その時、送り届けるために同行させられたのが友衛であり、あとで輝の祖母安岡千賀(良亮の妻)から「なんでそんな怪しからん使いに行つたか」と叱られた。

友衛は医師として秋水母多治の最期を看取った。友衛は秋水と同じ木戸門下生で、漢文の才もあった。秋水は獄中から母あてに送った有名な漢詩「七十阿嬢泣倚門」の意味は友衛に聞きくようにと手紙に書いた。友衛はその通り母に教えてやった。

友衛の往診には刑事の尾行がついた。夜の往診に出る時、娘がこわくないのかと聞かれ、お巡りさんも一緒だから平気だよと笑ったという。

岡崎輝は晩年、中村の郷土史家上岡正五郎氏にあてた手紙に、「(友衛は)立派な人格をそなえていました。私は身辺の人のうち最も尊敬したのは(安岡)秀夫でも秋水でもなく友衛兄でした」と書いている。

友衛の妻瀧江がスペイン風邪で命を落としたのは6人目の子を出産した直後。医者の友衛は、いろんな措置を講じようとしたが、あまりにも急なことで間に合わなかった。瀧江37歳。高知新聞投書の方の祖父と同じ大正7年11月の30日であった。

この時生まれた和子さんは、のちに初代中村市長になった森山正氏に嫁いだ。

友衛自身もその3年後、大正10年10月30日、喉頭ガンで没。51歳であった。

以上の話は、安岡友衛の孫の岡添眞子さん(友衛次女惇子さんの娘、中村在住)から聞いたものである。

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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