消えた北幡

 北幡は「ホクバン」と読みます。幡多郡北部という意味です。

3月30日、お隣の四万十町で開かれた、第6回四万十川桜マラソンに参加した。四万十町は2006年、旧3町村が合併。コースは、旧窪川町~旧大正町~旧十和村昭和を、四万十川に沿って下る42.195キロ。川沿いの桜がちょうど満開で、苦しいながらも、気持ちよく走ることができた。

四万十川を走るマラソンとしては、別に今年(10月)で第20回目を迎える先輩格の四万十川ウルトラマラソン(100キロ、60キロ)があるが、このコースは、今回のゴールから、さらに下流を走るので、両コースは重ならないようになっている。桜マラソンは四万十町単独開催、ウルトラマラソンは四万十市を主体に四万十町と共催という形をとっている。

<四万十川桜マラソンコース>
http://www.shimanto.tv/~sakuramarathon/map/map.html

四万十市も2005年、旧中村市と旧西土佐村が合併。つまり、窪川町から下流の5市町村は、すべて「平成の大合併」により名前が「四万十」になったのだ。

これによって消えたのが「北幡」である。大正町、十和村、西土佐村の3町村は、ともに幡多郡北部に位置していることから、一括して「北幡」と呼ばれていた。それぞれが独立自治体の時は、互いに連携して、各種事業に取り組んだり、いろんな催しを一緒に行なうなど、一体感のある地域であった。

そのシンボルが青年団活動。敗戦の混迷から、新しい時代に向かって、この地域をリードしたのは青年たちだった。当時、十和村は十川村と昭和村に、西土佐村は江川崎村と津大村に、分かれていたが、これら5町村による北幡連合青年団といえば、県下最強の組織であり、県組織の委員長も出していた。毎年、交代で学習会や運動会を開くなど、多彩な活動を行なっていた。

しかし、昭和30年代半ばをピークに人口流出が始まる。都会へ、都会へと、日本民族の大移動。いま地方はどこも、人口減少と過疎高齢化に呻吟している。

そうした中で、平成の大合併の大波をどう乗り越えるかの試練を迎えた。アメ(特例債等)とムチ(交付税削減)の政府誘導策に乗るか、耐えるか。

3人の首長は、自立よりも合併を志向。周辺自治体といくつかの組み合わせを検討した。その中には、「北幡3兄弟」の一体化案もあった。しかし、まとまらなかった。理由はいくつかあるが、自然や歴史文化等を共有するが、小さな3つの組み合わせよりも、より規模が大きくなる組み合わせを選んだということであったと、私は思う。
 
最終的には、住民投票にかけ、いまの形になった。名前は同じ「四万十」だが、市と町に分かれた。それぞれの役場は、支所となった。

 北幡にとって問題だったのは、四万十町が高岡郡となったこと。合併の軸になり、新しい役場本庁が置かれた旧窪川町が高岡郡であったためである。つまり、四万十町は郡を越えた合併であった。旧大正町、旧十和村地域は、新しい行政区分では幡多郡ではなくなったのだ。

 合併がどうあろうとも、人や文化などのつながりは続くものである。だから、いまでも北幡という「くくり」は生活の中では、一部残っている。

十和地域に保存会があり、熱心に伝えられている神楽は、いまでも「幡多神楽」であり、「高岡神楽」とは言わない。また、大正、十和地域は、幡多郡一円の農協が1998年に合併してできた高知はた農協(JA)に、いまでも属している。(窪川地域は四万十農協)

しかしながら、行政区分として、幡多郡と高岡郡に分断された以上、公式用語としては、もはや「北幡」は使えなくなったし、これから徐々に死語になっていくであろう。

窪川町から中村市まで、四万十川流域の旧5市町村の名前も消えたことでは、同じではないかと言われるかもしれないが、学校、駅名等はそのままであるなど、生活の用語(言葉)としては残っているし、ずっと生き続けるであろう。

「北幡」は、単なる地名というよりも、行政や方角などを意味する「概念」である。

合併では、得るものもと失うものがある、ということである。

DSC_1006.jpg     DSC_1014.jpg


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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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