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都留重人

前回、大分県安心院(あじむ)について書いた。その続きから。

私が大分県に転勤していたころ(1976~79)の宇佐郡安心院町は2005年、宇佐市と合併し、いまは宇佐市安心院町になっている。

安心院町には津房川という小さな川が流れている。この川を下ると、駅館川(やっかんがわ、全長43キロ)という二級河川に合流し、そのまま旧宇佐市長洲町で瀬戸内海(周防灘)に注いでいる。

河口の手前3キロぐらいの東岸に高森という地区がある。ここには都留姓の人が多くいる。

私が一橋大学に入学した時の都留重人学長はこの高森の都留一族の一人であった。私は大分に行ってから、このことを知った。

一橋大学では、大学紛争の渦中、1969年から3年間、学長空席となったが、紛争も一段落した1972年4月、私の入学と同時に、都留学長が就任した。

私は都留重人という名前をそれまで知らなかったが、一橋を代表する経済学の看板教授で、都知事選の候補者(革新側)に名前があがったことがあるという(本人が辞退し美濃部氏に)、世間一般にも高い知名度があるということを教えられた。

学長だから講座はなく、授業を受けることはなかった。しかし、講演やシンポジウムのような形の話は何度も聞いた。

一番印象に残っているのは、1年生の時、最初に聞いた話。確か、前期小平祭での講演会だったと思うが、小平講堂で、当時そのさなかにあったベトナム戦争の話をされた。

ベトナムの歴史から始まり、アメリカより先の戦い、フランスからの独立戦争でディエンビエンフーの戦いに勝利したこと、民族自立について、熱っぽく語られた。

今から考えると、専門の経済学とは直接関係がないベトナムのことをよく調べていたと思う。当時、ベトナム戦争が世界の知識人に与えていたインパクトが大きかったことを示していると思う。

一橋寮に来られ、話をしてくれたこともあった。

私が前期1,2年生のころは、前期だけの1か月ストライキが行われるなど、学生紛争の余波が残っていた。学費値上げ反対、筑波大学法案反対など、学生の意識も高く、たびたび自治会と大学側の団体交渉がされていた。(当時は、教員・職員・学生の三者構成自治という理念があった。いまはどうだろうか。)

団交はオープンなので、結構な数の一般学生も教室の後ろのほうできいていた。私もその一人だった。

学校側は、都留学長以下、4学部長、学生部長が前に並んで対応する。そのさい、学生側に理解があったのが都留学長と社会学部長(藤原彰教授)。逆が商学部長(木村増三教授)。

都留学長は、まとめ役として、学生の要求に配慮した形での妥協点をみつけてくれることが多かった。だから、学生に人気があった。

都留学長は旧制八高(名古屋)のとき学内で反戦活動に参加したことで逮捕入獄、学校から除籍(退学)された。日本では行く学校がなくなったので、アメリカに留学し、ハーバード大学に入った。

ハーバードでは、サムエルソン、スイージー、シュンペーター、ガルブレイスなど、その後世界を代表する経済学者になった面々と親交を深めた。

太平洋戦争中、交換船で帰国させられ、一時兵役にもついた。戦後は、その経歴を買われGHQの仕事も。片山社会党内閣の下で経済安定本部入り、第1回経済白書を執筆した。

一橋にスカウトされてからも、いわゆる「象牙の塔」の学者ではなく、国の経済社会政策について提言、市場経済の弊害への警告(「公害の政治経済学」)などを、雑誌、評論などで積極的におこない、また海外との交流も多く、行動派、国際派の学者であった。

話し方は論理明快、独特の高目のキーの声、シャープで歯切れがよかった。日本の学者、特に大御所と言われる人は、もったいぶって話すことによって権威をみせるというふうなことがあるが、そんなところは微塵もなかった。アメリカでの経験だろう。

都留学長はいつも蝶ネクタイをしていた。それがトレードマークだった。おしゃれ、スマート、ダンディー。本当の知識人、インテリとは、こういう人を言うのだろうと思った。私は、その後も、都留学長以上のスマートなインテリには出会ったことがない。

蝶ネクタイについては、アメリカ生活の中でお気に入りになったのだろうとずっと思っていたが、都留氏が晩年の2001年出版した自伝『いくつもの岐路を回顧して』を読んだ時、父信郎氏が蝶ネクタイをしている写真が載っていた。蝶ネクタイは父譲りのものであった。

一橋大学の学長の任期は3年。私は過去の多くの学長同様、都留学長も当然再選されるものと思っていた。しかし、意外にも再選されず、後任学長には商学部の小泉明教授がついたので、がっかりした。以降、学内で都留氏の顔を見ることはなかった。

当時、私は、都留学長は教授間の投票で負けたのだと思っていた。都留学長は一橋で初の母校卒業生でない学長(都留氏はハーバード大学卒)だったので、他の教授陣からの反感、ねたみなどがあったということも耳にした。学校から消えたのは、それにいやけがさして辞めたのだというような噂話も聞いた。

私のような一介の学生には真実がわからないままで、卒業後も、そのままになっていたが、上記自伝により真実がわかった。

決選投票は1975年3月、都留92票、小泉87票、無効7票、都留氏は規定の過半数にわずか1票足りなかった。どうするかは今後学内で協議することになったのだが、都留氏は3月末で定年(63歳)となってしまい、そのまま大学を去った。

都留氏にとって学長時代3年間は、一橋在籍27年間の中で最も多忙でいろんなことがあったことであろうと思うが、自伝の中では、さらりと書き流しているという感じで不自然である。私としては、もっといろんなことを書いてほしかったのに。おそらく、一橋生え抜きではないということで、いじめめいたことがあったのだと思う。

一橋は少人数の社会科学単科大学であるから、卒業生の会、如水会に代表されるように結束力が強いとされているが、都留氏はその犠牲者の一人といえるのではないか。自分も含め、偏狭な母校愛であってはならないと、もって肝に銘すべき、だと思う。

都留氏は、自伝には自分が去ったあとの学長のことは何も書いてない。あとは、小泉明氏がつなぎの学長事務扱いになり、その後正式の学長に就いている。そのさい、学生の除斥投票も含め、もう一度選挙があったのかどうかは私の記憶にはない。

いまとなって思えば、都留氏は一橋卒業生であったならば、すぐ協議のうえ票数の多かった都留氏がすんなり再選されていたことだろうと推測する。都留氏の定年が迫っていたため、小泉氏を推す商学部が動いて、わざとそれをサボタージュしたのではないか。

自伝を読んで、少なくとも都留氏は小泉氏に選挙で負けたのではないことを知って安堵した。しかし、私は都留学長の卒業証書をもらえなかったことは、いまでも残念に思っている。

最初の都留一族の話に戻る。

都留重人氏は、父の仕事(ガス事業)の関係で1912年(明治45年)、東京で生まれたが、戸籍上は伯父(父の長兄の喜一)の養子となり、3歳ころまで、いまの宇佐市高森で育つ。その後、両親のもとに戻され、名古屋で育つ。(父信郎は東邦ガス社長をつとめた人)

高森は、水利の悪い台地の上にあったので、駅館川から水を引くことが悲願であり、江戸時代から何度もその事業に取り組んだ。しかし、難工事のため失敗を繰り返した。明治中期になって、やっと広瀬井路という水路が完成した。その事業にかかわったのが祖父音平であった。自伝冒頭に詳しく書いている。

祖父音平は、熱心なクリスチャンになった。そんな関係で、重人氏の叔父(仙次、父の弟)はアメリカ、イギリスの神学校、大学で学び、のちの明治学院の院長になった。

重人氏は、一橋を去り、朝日新聞論説顧問をつとめたあと、明治学院大学教授に迎えられたのは、そんな家族の歴史が背景にあった。

都留重人氏は2006年、前立腺癌で93歳で没。墓は多磨霊園にある。

ぜひ、自伝『いくつもの岐路を回顧して』(岩波書店)を読まれることをお勧めしたい。

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 1976卒業アルバムより



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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
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