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坂本清馬の養女ミチエさん

中村で定職のなかった清馬の生活を支えたのは養女ミチエさんだった。

清馬自伝「大逆事件を生きる」によれば、清馬は一九三四(昭和九)年仮出獄後、高知で結婚したが未入籍のまますぐに別れた。

その後、太平洋戦争中、松脂採取業で中村に来ていたさい、常宿で女中をしていた「遠い親戚の娘に女房にならんかと持ちかけたら、養女にならなってもいいと言われて、その娘の父親にかけあい、養女に来てもらった」と書いている。

私は二〇一八年十月、ミチエさんの墓参りに愛媛県一本松町(現愛南町)を訪ねた。ミチエさんは実家の保岡家墓に入っており、姪(兄勝久さんの娘)の真喜子さん、典江さんから写真を見せてもらいながら、以下の話(両親、兄から伝え聞いている話を含めて)を聞かせてもらった。


ミチエさんは一九一五(大正四)年一二月二七日、農家の父保岡仲蔵、母コマの次女(二男、四女の四番目)として一本松町に生まれた。若いころから中村に出て、旅館花屋の女中をしていた。どんな経緯で中村に出たのかは聞いていない。

清馬が一本松に来たのは一度だけ。清馬の兄の息子(自伝に出てくる姉の息子義彦のことか?)の嫁にもらいたいとの話だった。その後、その甥が戦死。親はミチエさんに家に戻るか聞いたが、このままでいいと清馬のところに残った。

保岡家が清馬と親戚だったという話は聞いていない。(清馬は一八八五年生まれで三十歳上。養女として入籍はずっと後の一九六五年)。

戦後の昭和二九年、ミチヱさんが家を建て食堂(うどん屋)をしたいというので兄は田んぼを売って資金をつくってやった。少しずつ返済を受けた。家の前に保健所があったのに、移転してからは客が減ったときいた。

清馬の葬儀(一九七五年)には、兄、私(典江さん)、妹で行ったが、追悼集会には行かなかった。

ミチエさんは年に一、二度は盆の墓参りなど、バスを乗り継いで帰って来た。おいしい和菓子をみやげに。ハイカラな身だしなみで化粧をして、ヒールもはいていた。兄弟姉妹が集まり、二、三泊していた。おだやかで、ゆっくりとしゃべる人だった。

晩年、私(典江さん)が中村の家に行った時、家の中におしぼりをたくさん持って帰っていたのを覚えている。料理屋の手伝い、掃除、病人の付き添いなどをしているようだった。一九九六(平成八)年五月一五日、ガンのため中村の病院で亡くなった。 臨終には間に合わなかった。

葬儀は火葬場の斎場で身内だけ。中村に友達がいたようには思えなかった。享年八二歳。戒名・恵照妙乗信女位。自分の財産処理は公証人に委任していたので、家もすぐ買い手がついた。

ミチエさんは生前、一本松の常宝寺に清馬の永代供養として位牌を預けていた。後に高知の親戚という人が来て、相談のうえ持って行った。

清馬所蔵の本は、清馬没後ミチエさんが中村市立図書館に寄贈をしたが、手書き原稿・書類等はゴミのようにたくさん残っており、全部いったん一本松に持ち帰った。そのあと大部分は捨てたが、弟が大事そうなものを残し、西口孝町会議員(共産党)に預けた。清馬の墓は高知のほうにあるものと思っていた。中村にあるとはいままで知らなかった。(以上。聞き取り)


ミチエさんはおとなしく、目立たない人であった。ミチエさんは清馬のことを「お父さん」と呼んでいたそうだ。

私は今回、二人が住んでいた家(中村大橋通五丁目)の近所に住む年配者の何人かに聞いたところ、ミチエさんのことは覚えており、おとなしく品のある人だったという印象を持っていた。しかし、その中に親しく付き合っていた人はいなかったし、他に友達がいたようにも思えないとのことだった。二人を夫婦と思っていたという人もいた。

顕彰会会員でも清馬没後のミチエさんの生活の様子や消息を知る人はほとんどいない。ミチヱさんは顕彰化とは「関係ない」人となってしまった。清馬の原稿類が残さっていることも忘れられていた。ミチヱさんが亡くなったことも知らなかったぐらいだから。

わずかに、生前の清馬の面倒をみてきた尾﨑栄さん(一九九四年没)の家族が後でミチヱさんの死を知り、栄さんの妻と長男(清氏、本号寄稿)が一本松の保岡家を弔問している。

つくづく考える。ミチエさんはなぜ清馬と一緒に暮らすことを受け入れたのだろうか。天皇暗殺を企てた極悪人とされていた戦中のことである。当時、二十歳代半ばという若い身で。相当な覚悟があったのだと思う。

写真で清楚にみえる娘時代のミチヱさん。実家は堅実な農家で、兄、姉妹は普通に結婚し家庭をもっていた。みんな仲が良かった。ミチエさんの身に秘めた何かがあったような話もない。

世間から相手にされない清馬の話を、ただ一人旅館の女中として黙って聞いてやっていたという話もあることからすれば、清馬に同情する、共通の心の寂しさをもっていたのかもしれない。

二人が一緒に暮らすようになった経緯も、清馬自伝と保岡家の話は違う。清馬の甥の消息がわかればいいのだが(本当に戦死なのか)。清馬の位牌を持って行ったという親戚とは誰なのか。清馬両親、兄姉の墓がどこにあるのかも、わかっていない。

ミチエさんの生活は二人の時も、一人になってからも地味でつつましいものであった。しかし、実家に帰る時はハイカラな格好をしていたのは、芯の強い人であったのだろう。自分の死後の段取りまでつけていたというのだから。清馬と同じ墓に入りたいという気持ちはなかったのだろうか。

清馬を支え、尽くしたミチエさんのことはもっと知られるべきだと思う。清馬資料はその後当顕彰会に戻ってきて、いまは私が管理している。

娘時代のミチエさん    清馬追悼集会で
娘時代のミチエさん    清馬追悼集会(中村)で

幸徳秋水を顕彰する会機関誌「秋水通信」28号所収
原題「清馬の養女ミチエさん」
2020.5.20発行

幸徳秋水を顕彰する会ホームページにリンクしています。 
http://www.shuusui.com/
 

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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