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祖父 吉本武之助 (1)

私は祖父を知らない。祖父は私が生まれる二年前の昭和二十六年、七十一歳で亡くなった。

祖父は日露戦争を生き延びたあと、私の家に婿養子で入り、八束郵便局をつくったりしている。祖父は日記を残している訳でもなく、写真もわずかしかない。今年八十七歳の父に聞いても、祖父は幼少時代のことは多くを語らなかったそうだ。

私にとって祖父は魍魎(もうりょう)とした存在である。

最近、祖父が昭和十八年に使った手帳が一冊出てきた。そこに学歴、従軍歴の簡単なメモ書きがあったので、それをもとに寺や役場などでも調べ、明治、大正、昭和を生きた一人の日本人の足跡をたどってみたいと思った。


祖父吉本武之助は、明治十三年七月二十九日、幡多郡田ノ口村下田ノ口で父兼平、母キミの次男として生まれた。ほかに一人の姉と兄がいた。

上林暁は自分が生まれた下田ノ口のことを多くの小説に書いている。「ちちははの記」には、「ふといとこ」「こまいとこ」という記述がある。田畑など資産の多い家、少ない家という意味である。

当時の吉本家は「こまいとこ」であった。しかも、武之助五歳の時母を、十二歳の時父を失い、兄亀太郎が十七歳で家督を継いでいる。

武之助は明治二十四年、下田ノ口尋常小学校四年を卒業した。「田ノ口小学校百周年記念誌」(昭和六十一年刊)の卒業生名簿九名の最初に名前が出ている。明治の初めのころであり全員男、上林暁(本名徳広巖城)の父徳広伊太郎の名前もある。 

武之助は武(ぶ~)、武(ぶ~)と呼ばれた。勉強好きな子であったと言われている。だからであろう、家も苦しい中ではあるが、入野高等小学校に進ませてもらっている。しかし、一年でやめている。十一歳であった。

そのあとは、近くの家に奉公に出た。どの家なのか、どんな奉公だったのかはわからないが、当時「ふといとこ」には、百姓仕事や家の賄い、子守りなどを手伝う、住み込みの男女がいたというから、そんなことであったのであろう。

後年、武之助は孫娘が家の食事に不満でぐずったりすると、「家族みんなが一緒に食べることができるというのに何の不足があるか。いやなら食うな」と叱った。自分には家族がなく、また奉公時代は主人の家族が暖かい飯を食べていても、自分たちはあとで冷たい飯しか食べられなかったことを言いたかったのだ。

武之助は二十歳になった明治三十三年十二月、兵役についた。実家ではなく、奉公先から門(かどい)出(で)をしてもらい、高知の歩兵第四十四連隊に入営した。そして、明治三十六年十一月、兵役三年満期により下田ノ口に帰った。どこで荷をほどいたのかわからない。

半年後、明治三十七年四月二十六日、日露開戦による充員召集を受け、再び四十四連隊に入営。この時、姉多喜(加持の植田家に嫁いでいた)から「死んでこい」と言われた。御国のために死ぬというのではなく、帰っても家には何もないという意味だったと聞いている。 

五月七日、高知を出発、伊予高浜港で四国内各部隊と合流し、第十一師団(本部善通寺)として編成をされ、同月二十二~二十五日出港、二十八~二十九日、遼東半島張家屯に上陸をした。

第十一師団は、ただちに第一師団(東京)、第九師団(金沢)とともに乃木希典大将率いる第三軍に入り、旅順包囲作戦に加わった。ロシア海軍の基地旅順港は、まわりの二〇三高地、盤龍山、東鶏冠山などにつくられた難攻不落の要塞で守られていた。

第三軍は苦しんだ。ロシア要塞には最新型の機関銃が備えられていた。武之助らは盤龍山への突撃を命ぜられた。弾丸の雨の中、戦友が「豆の子を転がすように」バタバタと斃れていった。武之助も左腕に弾があたり負傷。屍(しかばね)の中に腕をおさえて伏せ、静まってから下山したという。帽子を脱ぐと弾が貫通、腰の銃剣にもあたっていた。

第三軍は八、十、十一月の三回総攻撃を行い、ようやくにしてロシア要塞を陥落させた。武之助がどの攻撃で負傷したのか、そのあと奉天の会戦などにも従軍をしたのかはわからないが、四十四連隊は明治三十九年一月、高知に復員している。

陸軍上等兵であった武之助が明治政府からもらった従軍功労、勲八等功七級の金鵄勲章が家に残っている。明治三十九年四月一日付、「日本帝國明治三十七八年従軍記章の證」。日露という文字はない。 

今回、徳広伊太郎についても調べてみた。「父イタロウ」は上林暁の小説でほぼ事実どおり書かれている。伊太郎は明治十四年八月八日生まれで武之助より一年あとだが、尋常小学校は一緒に卒業している。

徳広家は「ふといとこ」であった。小地主で後に造り酒屋にもなっている。伊太郎は一人息子として祖母に育てられた。尋常小学校を卒業したあと、入野の高等科四年も修了。十八歳で結婚をした時は、高知師範学校簡易科に在籍していた。妻は十七歳で子を産んだが、柿の実を多く食べていたので、難産で母子ともにすぐに亡くなった。

伊太郎は二十歳で再婚。妻春枝は十五歳。翌年長男巖城が生まれた。その頃は宿毛のほうの学校に赴任をしていたが、教員は義務年限の七年だけで辞め、家に帰って役場に入り、三十五歳から田ノ口村村長を十八年間つとめた。

伊太郎は兵役にはついてはいない。当時の徴兵制度では、師範学校に進んだ者は免除をされていたのである。

村長を辞めたあとの晩年、伊太郎はこう述懐していたという。
「武は家さえ貧乏でなければ、村長ぐらいはやっていただろう」
(続く)


大形文学学級「大形」276号投稿 2013年9月

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
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