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祖父 吉本武之助 (2)

武之助は日露戦争から生きて帰って来た。旅順総攻撃で左腕を負傷したので、早期除隊になったのか、四十四連隊本隊と一緒に高知に復員(明治三十九年一月)したのかはわからない。どちらにせよ、今後のあてはなかった。姉からは「死んでこい」と言われたように、帰る家はなかった。

武之助は高知の町で巡査の募集をしている張り紙を見つけた。負傷の左腕は幸い肩までは動かせたので、申し込んでみた。小学校しか出ていない自分ではたぶんダメだろうと思っていたが、合格通知が届き、明治三十九年度高知県巡査に採用をされた。

当時の巡査の採用状況を『高知県警察史』で調べてみたところ、翌年の明治四十年度の記録が残っており、志願者二百九十四名に対し採用七十四名となっている。かなりの難関だったようである。武之助は三か月の教習(研修)を受けたあと、沖ノ島村の駐在巡査として赴任した。

沖ノ島は明治になってから島全体が高知県になったが、江戸時代には土佐藩(弘瀬)と宇和島藩(母島)に分かれていた。武之助が赴任をした明治三十九年、島の人口は二五一七人(三百九十四戸)。両地区は言葉や風習の違いから婚姻を結ばない等の対立が色濃く残っていた。巡査駐在所は明治二十一年、母島の役場近くに置かれたが、当時は民間の家を借りていた。

その頃、八束村実崎の田中富治との養子縁組の話がもちあがった。縁組をすすめたのは、下田ノ口馬野々の嶋津清次であった。清次は富治の実弟であった。

田中富治の家も「こまいとこ」であり、当時、実崎では唯一の藁ぶき屋根だったという。武之助は清次から「八束に行ってくれないか」と頼まれた。武之助がその時どんな気持ちだったのかはわからない。

富治の子は女一人だった。「こんな家でよければ」と武之助を迎え、明治四十年七月、吉本武之助は富治、武根の娘常野(私の祖母)と祝言をあげ、田中武之助となった。武之助二十七歳、常野二十三歳であった。

ところで、富治の弟田中清次が馬野々の嶋津榮作の家に養子に入ったのは明治十六年。武之助から私の父が聞いた話では、清次は当時「弁当持ちで養子の口をさがした」そうだ。そして十九歳で榮作の娘古満と結婚している。

「米糠(こぬか)三合あれば養子にはやるな」という言葉がいつの時代に生まれたのか知らないが、自ら弁当持ちで養子の口をさがす、とはどういうことなのか。富治の家が貧しく、分家など考えられなかったこともあるが、より深い真相は当時の徴兵制度にあったらしい。

清次は元治元年(一八六四年)生まれ。維新後の明治五年、明治政府は「徴兵告諭」を出した。二十歳以上の男子に兵役を課すものであったが、地租改正に加えた負担に反発も大きく、しかも「兵役=血税」と書かれていたことによる誤解もあり、全国各地に徴兵反対の「血税一揆」がおこった。

明治七年、川登では農民五百三十人が中村の役所を襲撃するという事件もおこっている。「あぶらとり一揆」と呼ばれている。

一方で、「告諭」では戸主、長男のほか役人、代人料を払う者などは兵役を免除された。また、養家の養子も免除をされたため、養子先をさがしたり、名字を変え独立した家を装う者が続出したと記録されている。清次もその一人であった。

清次には田ノ口との縁もあった。富治、清次兄弟の父は孫平であるが、その妻夏は田ノ口村森幸右衛門の娘であった。幸右衛門夫婦の墓(本人慶応二年、妻天保十四年没)が実崎のわが家の墓の一角にあることから、最後は娘の嫁ぎ先で一緒に暮らしていたらしい。どういう縁があったのかわからないが、この時が田中の家と田ノ口とのつながりの始まりではなかろうか。

上田ノ口にはいまでも森姓が多く、森幸右衛門もそのあたりの出であると思われるので、竹島の菩提寺や入野の長泉寺で調べてもらったが、手がかりになるものはなかった。何かご存じの方がいれば、ぜひ教えていただきたい。

いずれにせよ、田中清次は兵役を逃れるために必死で探していた養子の口を、母夏の縁もあって下田ノ口馬野々の嶋津家に見つけたものと思われる。

なお、明治政府は明治二十二年、徴兵令を改正し、戸主、長男、養子などの免役規定をなくし、国民皆兵の原則を強化した。しかし、師範学校を出た者等、一部の免役は残している。上林暁の父徳広伊太郎は、これの適用を受けている。

さて、話を戻すそう。田中の家の養子になった武之助であるが、結婚後も常野を連れ一年間、沖ノ島で巡査を続けている。

島の主食はイモであり、麦飯がごちそう、米を食べることは稀という生活であったが、常野にとっては思い出深い新婚生活であったのであろう。晩年、沖ノ島のことをよく話していたことや、島で縁のあった方から長く海産物が送られてきていたことを、私は覚えている。

私よりだいぶ年上の従姉妹(祖母の孫)は、「お月さんももいろ」のわらべうた(珊瑚漁を歌ったもの)をきかせてもらったこともあるそうだ。

そんな沖ノ島を私はこの九月、初めて訪ねてみた。島のいまの人口は二百人を切り、巡査も廃止されて久しく、かつての賑わいは偲ぶよしもないが、それでも本土にはない海と空の独特の色とにおいは変わっていないはずであり、百年前、若い祖父と祖母が受けたであろう刺激と感動を、それが血のつながりというものであろうか、私もこの体の髄に感じたのであった。


大方文学学級「大形」277号  2013年11月

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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