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祖父 吉本武之助 (3)

田中富治の養子になった武之助は、明治四十一年、沖ノ島での巡査勤めを二年間で辞め、実崎に帰って来た。幼い時両親を亡くし、奉公に出てよその家の飯を食ってきた武之助にとって、妻の両親との暮らしは初めてえた家庭であり、自分の巣であった。

ほどなく、武之助は八束村役場に書記として採用された。役場に入ることが決まってから巡査を辞めたのか、しばらく実崎で農業に従事したあとなのかわからない。武之助は小学校しか出ていなかったが、読み書きソロバンが達者だった。独学なのだろうが、ソロバンで難しい掛け算、割り算もできたという。それを見こまれて役場に誘われたのだ。

武之助が養子に入った当時、実崎では藁ぶきの家は富治の家だけだった。少ない田畑に働き手として両親と妻がいたので、武之助は役場に出ることにした。もちろん百姓仕事もしながらのことである。明治四十三年、大逆罪で幸徳秋水らが逮捕されるという大事件がおこったころである。

明治は四十五年で終わり、乃木希典は天皇に殉じた。翌大正二年、武之助は名前を武夫に改名した。日露戦争旅順港閉塞作戦において壮烈な死を遂げ、のちに軍神としてあがめられた人に広瀬武夫がいた。旅順総攻撃で命を拾った武之助は、自分の名を明治に殉じさせたのではないだろうか。真意は伝え聞いていないが。

その頃、八束村にも郵便局を設置しようという機運が盛り上がっていた。日本の郵便制度は明治四年から始まった。現在、郵便局には「局番」がある。その番号は明治以降の設立順になっている。高知県下では、高知が一、幡多では宿毛六、下田九、中村十一、大方三十七、川登七十六・・・というように、当時郵便網が拡大していたが、脆弱な国家財政下、そのほとんどが三等局といって、地元の地主などの有力者に局舎を建てさせ、運営を委託する制度であった。

ある日、武夫は村長から「お前が郵便局をやれ」と言われた。突然のことで、驚いた武夫は「うちには、そんな財産はありません」と声を震わせ答えたが、村長は「そんなもん親戚のを全部書いて出せ。ワシが判を押すから」と言った。

村長は岡本壮司といって蕨岡の人だった。その頃、八束村は政争が激しく、地元では村長を決めることができず、「よそから雇う」ことになり、県会議員であった同氏を迎えていた。当時は県議と村長の兼務ができた。

岡本壮司については、金井明『四万十川 赤鉄橋の町』(高知新聞社)に詳しく書かれている。大正四年、中村から具同への渡し船が転覆し、幡多実科高等女学校の生徒ら十一人が溺死。旧制中学へ入学したばかりの上林暁(徳広巖城)も捜索に加わった。この事故を機に架橋運動が盛り上がり、大正十五年、鉄橋が完成するのであるが、この間、県の予算獲得や地元調整に尽力をしたのが政友会の大物政治家岡本壮司であった。のちの林譲治などはその直系だった。

岡本は八束村長を大正三年から十年まで務めている。八束村には郵便局をやりたがっている有力者が何人もいた。なのに武夫が指名をされたのは、政争の産物としか言いようがない。村長は日頃から武夫の勤勉な仕事ぶりや生活を見て、目にかけていたのだろう。実際、田中富治の家は武夫が養子に来てから運が上向いていた。

日露戦争は日本がはじめて国家としてたたかった戦争であった。それだけに戦死者や従軍者に対する戦後の補償は厚かった。

本山町出身の作家大原富枝は自伝『吉野川』に書いている。両親は再婚同士。母の前の夫は日露戦争の旅順総攻撃で戦死。お国から弔慰金百円のほか遺族扶助料など当時としては思わぬ大金が入ってきたものだから、嫁が残ると何かと面倒だということもあって、母は泣く泣く男の子を残して家を出されたそうだ。

武夫は日露戦争では旅順で左腕を負傷しながらも生還し、従軍功労勲八等功七級の金鵄勲章を受けた。このため、通常の軍人恩給に加え傷病恩給も支給された。弔慰金ほどではなかったにしても、それなりのものだったのであろう。

武夫は土地への執着が強かった。「こまいとこ」のみじめさが体に染み込んでいたからだ。武夫はまとまった金が必要な時は高利貸から借り、恩給や役場給料でコツコツと支払いながら、田畑、山林を少しずつ増やしていた。

八束郵便局は大正八年、開局した。武夫は役場を辞め局長になった。武夫三十九歳、局番は百十九であった。家(すでに藁ぶきではなかった)を道路側に増築して局舎とした。局の運営は国からの請負であり、職員の採用などは局長の裁量に任せられていたので家業のようなものでもあった。

最初の職員には沖ノ島での巡査時代に縁のあった家の少年を迎え、住み込みで家族同様に生活させた。局長といっても今と違って常時局にいる必要はなかったので、武夫は昼間は百姓仕事中心の生活であった。

大正はわずか十五年で終わるが、大正デモクラシーとか大正ロマンなどの言葉がある。通信・交通網が整備され、四国西南の地にも西洋文化が流入してきた。八束でいえば、伊豆田峠越えの道路開削を経て、大正三年、郡道中村―清水線が開通。同十四年には、同区間をバスが走り出した。

中村には同五年、大衆芸能の拠点中央座(中劇の前身)が落成。同十四年、初めて飛行機が着陸。四万十川鉄橋が完成した同十五年には、映画専用の太陽館も開業し、「おまち文化」が隆盛する。そんな時代であった。


文芸「大形」278号   2014年1月

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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