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発見された幸徳秋水書簡について

兆民遺墨「天下一品」、幸徳秋水書簡見つかる。

高知新聞8月19日付総合版で大きく報道(1面左、9面全部)。この書簡は1902年(明治35)年7月、長野県坂城町の児玉勝助という人物に宛てたもので、児玉が秋水の師中江兆民が描いた絵の写真を送ってくれたことに対する礼状。

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兆民には、信州小諸出身の小山久之助と言う弟子がいた。小山は1859(安政6)年生まれであるから、秋水より12歳上の先輩であり、一番弟子といえる人物。

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小山は自由民権運動の活動家で、1898年、地元長野から衆議院選挙に出馬し当選している。兆民は応援のために長野に行ったさい、小山の親戚にあたる児玉に「山水の図」を描いてやったようだ。

喉頭がんで余命1年半を宣告されていた兆民は、その通り、1901年12月没。手紙はその約半年後に書いている。

内容は、
1.天下一品の絵を見て兆民先生のことを思い出し感慨にふけっている、
2.理想団の件ではお骨折りをいただき感謝している、
3.小山家の人々へもよろしく伝えてほしい、など。

当時、秋水は萬朝報の看板記者であった。

この年の4月、日清戦争後、台頭する軍国主義と愛国主義を告発する「廿世紀の怪物帝国主義」を出版。7月には、萬朝報社長黒岩涙香の呼びかけに、同僚記者の堺利彦、内村鑑三らと応じ、社会改良をめざす理想団を結成、長野でも組織拡大をしていたことがうかがえる。日露戦が迫り、秋水が非戦論を展開しはじめる時期である。

兆民は闘病記ともいえる絶筆の書「一年有半」「続一年有半」を残している。この書は自失になりそうな師に秋水が提案、叱咤激励して書かせたものである。出版の段取りは小山久之助と一緒にした。

秋水も兆民没後、師への哀惜を込めて「兆民先生」を書いている。師弟愛あふれる二つの書は当時ベストセラーになり、名著として今も読み継がれている。


実は、小山久之助は兆民より2か月前に没している。首に腫物ができるリンパ腫であった。兆民は「一年有半」の中で、自分のことよりも小山の病状を心配していたことを書いている。

また、秋水も「兆民先生」の中で、「小山久之助君、先生の帰京を聴き、病を扶けて往で謁す、師弟相見て暗然語なき者之を久しくす、幾くもなく小山君先づ死す、末の露本の雫、老少の定めなく、後光の測りがたき眞に此如き哉」と書き、涙を誘っている。

久之助は、腫物がひどくなり、7月30日、渋谷赤十字病院に入院。その時、秋水あてに出した一枚の葉書が四万十市立図書館所蔵秋水資料の中にある。

「猛烈なる病勢を以て攻撃せられ力支ふるあたわず 遂に昨三十日を以て赤十字病院に逃籠せり・・・八月一日 渋谷赤十字病院にて 小山久之助」

今回発見されたのは秋水の書簡のほか、兆民の山水画と書、大石正巳の書簡など5点であり、セットで名古屋市の人物が所蔵していたものを岐阜市の長良川画廊(古美術商)が買い取って、公開したものである。(大石正巳は土佐出身の民権運動家で兆民の仲間)

これら5点は,いまは長良川画廊東京ギャラリー(六本木 03-5544-9091)に行けば見せてもらえる。(つい最近まで展示もしていた。)

秋水の書簡に書かれていることは、礼状であり儀礼的な内容であるが、兆民、久之助を通した、秋水と長野の人たちとの交流の様子がうかがえる。さらに、兆民、久之助、秋水という、深い信頼と愛情で結ばれた師弟関係も知ることができる。

兆民は貧乏をしていたので、久之助の選挙支援のために、長野の人たちに絵や書を書いてやっていたようで、高知新聞記事によれば、長野県内には兆民遺墨があちこちに残っているという。


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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
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