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祖父 吉本武之助 (4)

武之助から改名した田中武夫が大正八年、八束郵便局を開設したころの家族は妻、娘、妻の両親の五人であった。

娘千恵子は結婚二年後の明治四十二年に生まれた。さらに二年後、待望の男の子も生まれたが、わずか十二日の命だった。小さな地蔵石に正穂と名を刻んだ。

夫婦は悲しさを忘れるように仕事に精を出した。武夫には役場勤め、その後も局長としての仕事もあったが、妻常野は百姓仕事がすべてであった。字もろくに書けなかったので小学校も出ていたのかわからない。裸足で田んぼや畑を這いまわった。実崎では「しごとし」で通っていた。気も強く、夫婦喧嘩になると武夫は「わしゃ田ノ口にいぬる」と無駄な抵抗をした。

財産を少しずつ増やしていく中で、間崎の大島にも畑を買い、舟で渡り甘蔗(サトウキビ)を植えた。家のせんち(便所)から家族のモノを肥やしに運んだが、それだけでは足りないので、対岸の下田の人家からも分けてもらった。こっちで汲み取りをしてもカネを払い、舟底にそのまま流し込んで武夫が艪を漕いだ。そんな舟の中で昼飯も食った。

八束では甘蔗栽培はいまは絶えたが、当時はかなり作られていた。実崎の舟だまりの羽根で馬を使って共同搾汁し、黒砂糖にしていた。

常野の両親、富治(安政四年生)と武根(文久二年生)は欲のない、のんきな人間であった。だからみるべき財産も残していなかった。家督はあっさり武夫に譲った。

富治はメジロが好きで、十八歳の時から八十二歳で死ぬまで飼った。近くの池でフナを釣ってはすりつぶして餌にした。メジロは土地に居着いたのが声の張りがいいと言って深木の奥に落としに行った。

川漁も好きで、竹かごを作り田んぼの蟹(ガネ)をつぶして泥に混ぜてかごの底板に練り込んで川に沈めておくと、チヌなどが入った。この仕掛けは「ウエ」と言った。川に植え込むという意味だろうか。いまではもう見ない。

武夫夫婦にはその後しばらく子ができなかった。あきらめかけていたところに、大正十一年、男の子が生まれ、宏と名付けた。利発そうな子であった。しかし、言葉をしゃべりだした一歳半の時、またもや肺炎を患い死んだ。常野は二つになった地蔵石に毎日通い、ひざまずいて泣き通した。

これでいよいよ子をあきらめていたが、その二年後大正十四年、三度目の男の子を授かった。武夫四十五歳、常野四十一歳の古種であったせいか、弱々しい子だった。武夫は今度こそ丈夫に育ってほしいと願い、奈良吉野山の高僧のところに出向き豊暖(とよはる)と命名してもらった。

さらに当時はよくあったようだが、近所の田中善明の家にいったんやり、善金(よしかね)という名を付けてもらってから戻してもらった。家では善金と呼んだ。

豊暖と長女千恵子の年の差は十六。千恵子が弟を背負って子守をしていると、同級生の男の子から「お前にはいつ子ができたのか」とからかわれたという。

武夫は新しもの好きというか、社会の先端をいくものへの好奇心が強かった。当時の田舎ではめずらしく土陽新聞を郵便でとった。ラジオを買うのも早かった。家にはじめてタイルを使ったりもした。

武夫は自分が小学校を出ただけで勉強をしたくともできなかったことから、子どもの教育には前向きであった。千恵子は中村の女学校に入れた。実崎では二人だけだった。袴をはいて、歩いて中村に通った。

千恵子は卒業後、同じ実崎の富治の妹、餅(もち)と田中市太郎の四男で教員の一(はじめ)と一緒にさせた。一は下田ノ口馬野々の嶋津清次(富治弟)の家に一年間下宿して入野の高等三年に編入し、師範学校に入った。豊暖はまだ幼く将来に不安があったので一は中継ぎ養子とした(のちに解消)。

市太郎の長男恒治、三男兼三郎も教員であった。実崎は万年水に浸かり農業には不適地であったことから、当時から勤め人の教員になる者が多かった。

田中恒治は大正十三年、加持小学校校長になり自由教育を実践。戦後は大方町の教育委員長、教育長を務めている。一も、のちに大方中学校校長を務めた。

豊暖は八束小学校高等科を出たあと中村中学(旧制)に進ませたかったがうまくいかず、入野の高等青年科(青年学校)に一年間自転車で通って翌年も受験した。しかし、二度目も失敗。成績は悪くはなかったが、気弱な性格のため口頭試問で落とされた。

豊暖本人よりも武夫のほうがくやしかった。後年、私が高知の高校に合格した時、伯母の千恵子が「おじいちゃんが生きていれば、どんなにか喜んだろうに」と言っていたことを思い出す。

豊暖にはいずれ八束郵便局を継がせることにしていたので、ならばと大阪逓信講習所に進ませ、中村郵便局に入れた。逓信講習所には二年後、再び高等科にも進ませた。

日米開戦間もない頃であり、豊暖はモールス信号等通信技術をたたき込まれた。電報等の通信は戦争遂行のためには欠かせないものだった。

戦局が厳しくなると、旧制中学に進んだ者も含め同級生の多くが出征していったが、豊暖に最後まで赤紙が来なかったのはこのためであった。
      

大形文芸学級「大形」279号   2014年3月


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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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