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国鉄中村線

1970年10月1日、鉄道(国鉄)が中村に着いてから50年になった。

中村駅で記念のパネル展をやっているので見て来た。最初の列車が中村駅を出発するさいに駅に集まった群衆の多さ。みんな手旗を振っている。幡多にとって鉄道は名実ともに悲願であった。

当時、私は高知市の学芸高校3年生であった。高校の寮にいたので、中村に帰るのが楽しみで、冬休みが来るのが待ち遠しかった。

いよいよその日、それまで終点であった土佐佐賀駅から先に伸びたレールの上を走るときはドキドキであった。青く光る佐賀の海が飛び込んで来た。東大方→上川口→浮鞭→入野→西大方と進み、後川の鉄橋を渡り、右にカーブすると、いよいよ中村だ。感動は最高潮に達した。

当時、中村に汽車が来るなんて夢のまた夢であった。高知市から遠い幡多は「陸の孤島」言われていた。それまではとても考えられなかった高知市への日帰りが可能になった。

小学校6年生の時の修学旅行の行先は高知市方面であった。貸し切りバスで佐賀まで行き、列車に乗った。高知はドキドキする大都会だった。お城、桂浜、五台山、龍河洞、杉田ダム、日章飛行場などに行った。

高校を出てから、大学、就職は東京であり、帰省のさいはいつも中村線にお世話になった。

転機は、1988年、中曽根内閣の時の国鉄の分割民営化。これに合わせて、中村線はわずか18年で廃止路線になった。地元自治体は受け皿として第三セクターの土佐くろしお鉄道をつくり、移管を受けた。

当時、その後つながった予土線のほうの赤字がはるかに大きかったため(今もそうだが)、予土線が廃止になり、中村線は残るのではないかと言われていたが、結果は、予土線は四国循環線であるため残り、窪川から盲腸のように伸びていた中村線が切られ、がっくりした。

中村線は当時の全国の国鉄路線の中では、赤字額はそう多いほうではなかったが、窪川までが土讃線で、中村は乗り換えなしの延長線なのに、当時の中村市長が「中村」の名前にこだわり、窪川~中村間を「中村線」としたたことが裏目に出て、切り捨てられる口実を与えた形になった、と言われていた。

第三セクターになってからも特急はJRと相互乗り入れなので、利用する側の見た目に変わらないが、年々赤字が累積してきているいまとなっては、地元自治体の財政負担は膨らんでいる。

赤字は、自助努力を超える部分は、高知県が半分、地元の幡多6市町村と四万十町が半分を負担するルールとなっている。四万十市の負担額が一番多い。

今年度はコロナの影響で利用者が激減しているので、赤字が過去最大になることは必至である。

一方で、高速道路のほうはドンドン伸びてきているので、鉄道利用者はさらに減少していくことであろうし、人口減が続く中、今後の見通しに明るい材料はない。

自治体は期成同盟会をつくり高速道路延伸に力をいれているが、一方を建てれば、もう一方の足を引っ張る。自分で自分の首を絞めているようなものである。

しかし、かくいう私も最近はマイカーを使って、列車に乗ることはめったになくなった。

早晩、鉄道の廃止問題の議論が出てくるだろうが、公共の足としての鉄道は絶対になくしてはいけない。50年前のあの感動を忘れてはいけないと、自分に言い聞かせている。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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