森近運平

 4月20日、岡山県井原市で開かれた森近運平墓前祭に参加したことは先に書いたが(4月29日付)、もう少し書いておきたい。

 「大逆事件」で処刑された12人(ほかに無期懲役12人)の中で、私は地元の幸徳秋水に次いで、親近感をおぼえるのが森近運平である。

理由は二つ。

 一つは、運平の妹の栄子さん(いまは故人)が事件の再審請求裁判を行なったから。1961年、当時、事件犠牲者唯一の生き残りで中村在住であった坂本清馬氏(無期懲役、24年後釈放)と2人で立ち上がったのだ。6年後、最高裁は「新たな証拠がない」として、請求を却下したが、この裁判によって戦後埋もれかけていた事件の実態が広く世に知られた意義は大きかった。この流れは、2000年中村市議会、2001年新宮市議会での事件犠牲名誉回復決議等につながっていく。

 二つは、運平は日本で最初に産業組合の普及に取り組んだ1人であること。産業組合はいまの農協や生協などの前身であり、小作・貧農などの相互扶助組織として明治30年代に芽生えた。「一人は万人のために、万人は一人のために」の協同組合原則につながっている。

運平は岡山県農学校を首席で卒業後、岡山県庁に入り農業指導を担当、産業組合の普及に努める。農商務省主催の研修会(東京)にも出かけ、普及書として『産業組合の手引き』を書いている。熱心に取り組むがゆえに、貧富の格差などの矛盾に気づき、幸徳秋水らによる社会主義運動に接近する。中村に帰省中の秋水を訪ね、秋水と一緒に演説会なども行なっている。

産業組合は、その後全国に広がっていく。その金融部門の中央機関として、1923年(大正12)、産業組合中央金庫が設立された。当時は国の出資による「官営」であったが、戦後、農林中央金庫と名前を変えたあと、いまは政府出資ゼロで、農協、漁協、森林組合(これらを系統組織という)等の共同出資による「民営」となり、農漁協貯金の最終運用機関としての役割を果たしている。

私はこの農林中央金庫で30年間、仕事をした。1989~92(3年間)は岡山支店に勤務した。井原市にも融資の仕事でたびたび出かけている。ちょうどバブル経済絶頂期で地価も金利も高騰。国と日銀が金融統制に翻弄された時期であり、その後の「失われた20年」~いや今でも~につながっている。

私は、その後、地元中村に帰って来た。
そして2011年、幸徳秋水刑死100周年にあたったことから、四万十市をあげて官民共同の記念事業を行ない、その実行委員長を務めた。

幸徳秋水は「大逆事件」の「首謀者」に仕立て上げられた。「事件」は非戦・平和・自由・平等・博愛、等の「思想」を裁いたものであり、その「思想」の理論的指導者が秋水であった。

その意味で、中村は「大逆事件」のシンボルであり、「聖地」である。

 「大逆事件」は決して過去のことではない。いまでも、村木厚子事件や、最近の袴田事件のように、信じられないような「事件」がつくりあげられている。

100周年記念事業の中で開いた、第1回「大逆事件サミット」では、全国各地で事件犠牲者の名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる人たちが一堂に会し、人権弾圧のない世界を築いていくとする「中村宣言」を採択した。

私も記念事業の代表を務めた以上、今後、こうした取り組みには積極的にかかわっていきたいと思う。

第2回「大逆事件サミット」は今年10月、福岡県みやこ町(旧豊津町、堺利彦の生誕地)で開かれる。

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大逆事件の犠牲者を顕彰する

映画「熊野から」で、新宮の大逆事件の犠牲者を顕彰する会の会長の言葉と「志を継ぐ」の碑を取り上げました。会長の言葉のなかに森近運平のことが出てきます。21日から1週間岡山市のシネマクレールで午前1回上映されます。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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