大逆事件サミット神戸大会
5月27,28日、第5回大逆事件サミット神戸大会が開かれた。サミットの正式名称は「大逆事件の犠牲者たちの人権回復を求める全国連絡会議」で、2011年、大逆事件百年を機に、四万十市が「幸徳秋水刑死百周年記念事業」の一環としてはじめて開催をした。私は当時の四万十市長であったので、第1回実行委員長である。
以降、第2回、2014年、福岡県豊津(みやこ町、堺利彦のふるさと)、第3回、2016年、大阪市(管野須賀子の生地)、第4回、2018年、和歌山県新宮市(大石誠之助ら6人犠牲)で開いてきた。
第5回は2020年秋、神戸市で開くことが決まっていたが、コロナの蔓延で延び延びになり、やっと4年半ぶりに開くことができた。
神戸は事件の犠牲(無期懲役)になった高知市出身の2人、岡林寅松と小松丑治が平民新聞の読書会を開くなど、活動をしていたところである。
私はサミットには毎回参加、第2回以降はこのブログに記録しているし(第1回の時はブログを始めていなかった)、神戸で犠牲になった二人についても何度も書いている。 →http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-122.html
今回、会場のJR神戸元町駅前、学校厚生会館には140人集まった。内訳は地元の兵庫県から70人、他県から70人。全国の幸徳秋水を顕彰する会の会員430人の中からも結構多く参加していた。中村からは7人。
私は2日前に東京へ。前の職場(農林中央金庫)のOB会参加と、専修大学図書館今村力三郎文庫での幸徳秋水資料の調査という二つの用事を済ませてから新幹線で神戸に向かった。(今村力三郎は秋水らの弁護をおこなった弁護士で、戦後専修大学の学長をつとめた。調査結果については後日報告します。)
サミットは午後2時開会。冒頭、主催者を代表して2人があいさつ。

山泉進さんは中村出身の幸徳秋水研究者で、「大逆事件の真実をあきらかにする会」の事務局長、「大逆事件・・・全国連絡会議」代表、明治大学名誉教授。
飛田雄一さんは「大逆事件を明らかにする兵庫の会」の共同代表。同会はサミットの準備をきっかけに、恒常的な学習、運動組織として発足した。

記念講演も山泉さんと上山慧さんの2人が、「神戸と大逆事件」を共通テーマに話をした。(各1時間)
山泉進さんは、大逆事件につながる神戸の人物2人を紹介した。ロバート・ヤング(1858~1922)と大塚金之助(1892~1977)。
ロバート・ヤングは英国の元植字工で来日後、神戸で「ジャパン・クロニエル」(英字新聞)を発行。リベラリストの立場から、日本のナショナリズムと軍国主義を批判、言論の自由を要求。秋水らの処刑の時は、一時帰国していたので、ロンドンで「タイムズ」「デイリー・ニューズ」などで事件を追及。日本政府に対する抗議の波が世界に広がった。
大塚金之助(経済学者)は、神戸高等商業学校(のちの神戸大学)に在学中の1912年5月の「学友会報」に「菖蒲花人」のペンネームで「主義者ゴールドマン」と題した文章を書いた。
ゴールドマンとは当時アメリカにいた有名な女性アナキストで秋水らとも交流があった。内容は処刑された秋水らの擁護と言論弾圧への批判をこめたものだった。大塚は退学にはならなかったが、授業料免除の特典をはく奪された。

上山慧さんは「神戸平民倶楽部と大逆事件」の著書もある若き研究者で、「神戸の大逆事件の犠牲者 岡林寅松・小松丑治」について話をした。
2人は高知市の出身で小学校の同級生、神戸海民病院につとめていた時、秋水の非戦論に共鳴し、平民新聞の読書会を開いていた。
そこに内山愚堂が訪ねてきて、爆弾製造に使われる薬品の名前を聞かれたことを口実に、わけがわからないままに事件に連座させられた。死刑判決を受けたが無期懲役に減刑、長崎監獄に20年間入れられた。2人の墓は高知市にある。→http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
講演後は参加各団体からの活動報告。順番に。大逆事件の真実をあきらかにする会(東京)、堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会(福岡)、京都丹波岩崎革也研究会、幸徳秋水を顕彰する会、森近運平を語る会(岡山)、「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会(和歌山県新宮市)、管野須賀子の名誉を回復し顕彰する会(大阪市)、伊藤野枝100年プロジェクト(福岡)、奥宮健之の雪冤をめざす会(富田林市)。

最後に以下の「第5回大逆事件サミット神戸宣言」を採択した。
3年にわたるコロナ禍を克服して、ここ神戸で第5回大逆事件サミットを開催できたことに、心から歓びを分かち合いたいと思います。その間に、神戸では「大逆事件を明らかにする兵庫の会」を立ち上げ、講演会の開催や各地との交流会を重ねてきました。ここ神戸で「大逆事件」の犠牲者となった岡林寅松と小松丑治は「非戦論」を掲げて日露戦争に反対する週刊「平民新聞」の主張に共鳴し、「神戸平民倶楽部」を結成しました。そして、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助、内山愚堂らとの交流をはかりました。そのことだけで、政府の社会主義者根絶という方針のもとで「大逆事件」の被告となり、1911(明治44)年1月18日、大審院において死刑の判決を受けました。翌日に無期懲役に減刑されましたが、1931(昭和6)年4月29日仮出獄するまでの獄中生活、その後の社会生活において、本人はもとより家族が受けた苦難は筆舌につくせないものがありました。
他方では、神戸で創刊された英字新聞「ジャパン・クロニエル」は、日本政府の社会主義者たちに対する弾圧を批判し、思想と言論の自由を主張し続けました。また、弱冠20歳の大塚金之助は「神戸高等商業学校学友会報」において、国際的な抗議活動を呼びかけたエマ・ゴールドマンを紹介し、抗議の意を示し、当局から処分を受けました。神戸は幕末においていち早く開港し、西欧文明を受け入れ、「人権」思想を発展させた国際的な都市でもありました。
「大逆事件」は、戦争と同じく国家による犯罪であります。いままた、ロシアによるウクライナ侵略が続いています。私たちはあらためて戦争に反対し、国家による人権弾圧に抗議したいと思います。「平和」の構築と「人権」の尊厳をめざして、そして岡林寅松や小松丑治などの「大逆事件」犠牲者たちを顕彰し、名誉の回復をはかる活動を継続していくことを、ここ神戸で誓います。
2023年5月27日
第5回大逆事件全国サミット参加者一同

2日目はフールドワークをおこなった。快晴、そよかぜの下、約30人が参加した。
午前10時、神戸大学医学部病院前に集合。道路向かいが神戸多聞教会。夫を奪われ一人になった小松丑治の妻のはるさんが庇護を受けたところだ。丑治とはるさんは、逮捕時、養鶏業を始めていた。はるさんは、1人で鶏の世話をし、卵を売って暮らした。多聞教会の今泉真幸牧師から洗礼を受けた。


テクテク歩いて次は大倉山公園へ。神戸の港が見下ろせる高台にある。その一角に神戸空襲の犠牲者を追悼する碑がある。「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」。2013年8月15日建立。

神戸空襲では約8千人が犠牲になったが、そのうちいま現在名前がわかる2231人の名前が刻まれている。その中に井上秀天の名前がある。井上は岡林、小松らと同じ神戸平民倶楽部のメンバーで、もう1人、中村浅吉とともに警察の取り調べを受けたが、起訴はまぬがれた。しかし、要観察人としてマークされ続けた。
次は、旧夢野村にかかる熊野橋へ。内山愚堂が2人を訪ねてきたとき、小松がここで落ち合った。ここからすぐ近くにあった海民病院へ案内した。近くに熊野神社があるから熊野橋であるが、当時の熊野橋はいまの夢野橋かもしれないという。

最後は、小松はるさんが一人で守った鶏舎跡へ。当時は畑が多いところだったと言うが、まわりは住宅がびっしりで、鶏舎跡とみられるあたりは市営住宅(アパート)になっていた。ちょうど正午の時間になったので、ここで解散となった。

今回、二人が仕事をしていた海民病院跡には行けなかったが、私は上山さんと9年前訪ねている。その後の小松丑治の足跡も含めて、過去のブログに書いている。 →http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
次回、第6回サミットは岡山県井原市で2025年秋、開くことになった。井原市高屋は森近運平(死刑)の故郷です。
以降、第2回、2014年、福岡県豊津(みやこ町、堺利彦のふるさと)、第3回、2016年、大阪市(管野須賀子の生地)、第4回、2018年、和歌山県新宮市(大石誠之助ら6人犠牲)で開いてきた。
第5回は2020年秋、神戸市で開くことが決まっていたが、コロナの蔓延で延び延びになり、やっと4年半ぶりに開くことができた。
神戸は事件の犠牲(無期懲役)になった高知市出身の2人、岡林寅松と小松丑治が平民新聞の読書会を開くなど、活動をしていたところである。
私はサミットには毎回参加、第2回以降はこのブログに記録しているし(第1回の時はブログを始めていなかった)、神戸で犠牲になった二人についても何度も書いている。 →http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-122.html
今回、会場のJR神戸元町駅前、学校厚生会館には140人集まった。内訳は地元の兵庫県から70人、他県から70人。全国の幸徳秋水を顕彰する会の会員430人の中からも結構多く参加していた。中村からは7人。
私は2日前に東京へ。前の職場(農林中央金庫)のOB会参加と、専修大学図書館今村力三郎文庫での幸徳秋水資料の調査という二つの用事を済ませてから新幹線で神戸に向かった。(今村力三郎は秋水らの弁護をおこなった弁護士で、戦後専修大学の学長をつとめた。調査結果については後日報告します。)
サミットは午後2時開会。冒頭、主催者を代表して2人があいさつ。

山泉進さんは中村出身の幸徳秋水研究者で、「大逆事件の真実をあきらかにする会」の事務局長、「大逆事件・・・全国連絡会議」代表、明治大学名誉教授。

飛田雄一さんは「大逆事件を明らかにする兵庫の会」の共同代表。同会はサミットの準備をきっかけに、恒常的な学習、運動組織として発足した。

記念講演も山泉さんと上山慧さんの2人が、「神戸と大逆事件」を共通テーマに話をした。(各1時間)
山泉進さんは、大逆事件につながる神戸の人物2人を紹介した。ロバート・ヤング(1858~1922)と大塚金之助(1892~1977)。
ロバート・ヤングは英国の元植字工で来日後、神戸で「ジャパン・クロニエル」(英字新聞)を発行。リベラリストの立場から、日本のナショナリズムと軍国主義を批判、言論の自由を要求。秋水らの処刑の時は、一時帰国していたので、ロンドンで「タイムズ」「デイリー・ニューズ」などで事件を追及。日本政府に対する抗議の波が世界に広がった。
大塚金之助(経済学者)は、神戸高等商業学校(のちの神戸大学)に在学中の1912年5月の「学友会報」に「菖蒲花人」のペンネームで「主義者ゴールドマン」と題した文章を書いた。
ゴールドマンとは当時アメリカにいた有名な女性アナキストで秋水らとも交流があった。内容は処刑された秋水らの擁護と言論弾圧への批判をこめたものだった。大塚は退学にはならなかったが、授業料免除の特典をはく奪された。

上山慧さんは「神戸平民倶楽部と大逆事件」の著書もある若き研究者で、「神戸の大逆事件の犠牲者 岡林寅松・小松丑治」について話をした。
2人は高知市の出身で小学校の同級生、神戸海民病院につとめていた時、秋水の非戦論に共鳴し、平民新聞の読書会を開いていた。
そこに内山愚堂が訪ねてきて、爆弾製造に使われる薬品の名前を聞かれたことを口実に、わけがわからないままに事件に連座させられた。死刑判決を受けたが無期懲役に減刑、長崎監獄に20年間入れられた。2人の墓は高知市にある。→http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
講演後は参加各団体からの活動報告。順番に。大逆事件の真実をあきらかにする会(東京)、堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会(福岡)、京都丹波岩崎革也研究会、幸徳秋水を顕彰する会、森近運平を語る会(岡山)、「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会(和歌山県新宮市)、管野須賀子の名誉を回復し顕彰する会(大阪市)、伊藤野枝100年プロジェクト(福岡)、奥宮健之の雪冤をめざす会(富田林市)。

最後に以下の「第5回大逆事件サミット神戸宣言」を採択した。
3年にわたるコロナ禍を克服して、ここ神戸で第5回大逆事件サミットを開催できたことに、心から歓びを分かち合いたいと思います。その間に、神戸では「大逆事件を明らかにする兵庫の会」を立ち上げ、講演会の開催や各地との交流会を重ねてきました。ここ神戸で「大逆事件」の犠牲者となった岡林寅松と小松丑治は「非戦論」を掲げて日露戦争に反対する週刊「平民新聞」の主張に共鳴し、「神戸平民倶楽部」を結成しました。そして、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助、内山愚堂らとの交流をはかりました。そのことだけで、政府の社会主義者根絶という方針のもとで「大逆事件」の被告となり、1911(明治44)年1月18日、大審院において死刑の判決を受けました。翌日に無期懲役に減刑されましたが、1931(昭和6)年4月29日仮出獄するまでの獄中生活、その後の社会生活において、本人はもとより家族が受けた苦難は筆舌につくせないものがありました。
他方では、神戸で創刊された英字新聞「ジャパン・クロニエル」は、日本政府の社会主義者たちに対する弾圧を批判し、思想と言論の自由を主張し続けました。また、弱冠20歳の大塚金之助は「神戸高等商業学校学友会報」において、国際的な抗議活動を呼びかけたエマ・ゴールドマンを紹介し、抗議の意を示し、当局から処分を受けました。神戸は幕末においていち早く開港し、西欧文明を受け入れ、「人権」思想を発展させた国際的な都市でもありました。
「大逆事件」は、戦争と同じく国家による犯罪であります。いままた、ロシアによるウクライナ侵略が続いています。私たちはあらためて戦争に反対し、国家による人権弾圧に抗議したいと思います。「平和」の構築と「人権」の尊厳をめざして、そして岡林寅松や小松丑治などの「大逆事件」犠牲者たちを顕彰し、名誉の回復をはかる活動を継続していくことを、ここ神戸で誓います。
2023年5月27日
第5回大逆事件全国サミット参加者一同

2日目はフールドワークをおこなった。快晴、そよかぜの下、約30人が参加した。
午前10時、神戸大学医学部病院前に集合。道路向かいが神戸多聞教会。夫を奪われ一人になった小松丑治の妻のはるさんが庇護を受けたところだ。丑治とはるさんは、逮捕時、養鶏業を始めていた。はるさんは、1人で鶏の世話をし、卵を売って暮らした。多聞教会の今泉真幸牧師から洗礼を受けた。



テクテク歩いて次は大倉山公園へ。神戸の港が見下ろせる高台にある。その一角に神戸空襲の犠牲者を追悼する碑がある。「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」。2013年8月15日建立。


神戸空襲では約8千人が犠牲になったが、そのうちいま現在名前がわかる2231人の名前が刻まれている。その中に井上秀天の名前がある。井上は岡林、小松らと同じ神戸平民倶楽部のメンバーで、もう1人、中村浅吉とともに警察の取り調べを受けたが、起訴はまぬがれた。しかし、要観察人としてマークされ続けた。
次は、旧夢野村にかかる熊野橋へ。内山愚堂が2人を訪ねてきたとき、小松がここで落ち合った。ここからすぐ近くにあった海民病院へ案内した。近くに熊野神社があるから熊野橋であるが、当時の熊野橋はいまの夢野橋かもしれないという。


最後は、小松はるさんが一人で守った鶏舎跡へ。当時は畑が多いところだったと言うが、まわりは住宅がびっしりで、鶏舎跡とみられるあたりは市営住宅(アパート)になっていた。ちょうど正午の時間になったので、ここで解散となった。


今回、二人が仕事をしていた海民病院跡には行けなかったが、私は上山さんと9年前訪ねている。その後の小松丑治の足跡も含めて、過去のブログに書いている。 →http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
次回、第6回サミットは岡山県井原市で2025年秋、開くことになった。井原市高屋は森近運平(死刑)の故郷です。