保育の父 佐竹音次郎

 5月24日、「保育の父 佐竹音次郎にまなぶ」講演会が市内竹島小学校で開かれた。
講師は高知大学・玉里恵美子教授(社会学)。主催は地元で児童養護施設若草園を運営している社会福祉法人栄光会で、体育館いっぱいの約300人が集まった。

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 佐竹音次郎は日本ではじめて「保育」という言葉を使った(つくった)人だ。明治29年(1896)、神奈川県鎌倉に「小児保育院」を開設し、その後「鎌倉保育園」となる。日本で最初の保育園だ。

この保育園は、いまの保育園とは違う。当時の孤児院のことだ。音次郎は、孤児院という言葉を嫌い、身よりのない子どもたちを、「保(やす)らかに育てる」という意味で「保育院」とつけた。以後、児童福祉一筋に生涯をささげたことから、「保育の父」と呼ばれている。

 児童福祉の先駆的役割 佐竹音次郎

 音次郎は幕末の元治元年(1864)、竹島生まれ。幼くして里子(養子)に出された。しかし、養父母が離別したため、実家に帰された。その後、刻苦勉励して東京に出で医者になり、鎌倉で開業。キリスト教にも帰依。幼いころ自ら寂しく悲しい体験をしていることから、身寄りのない子を引き取るようになった。その後、医者を捨て、保育事業に専念するようになる。私財のすべてを投じ、自他の子ども分け隔てなく育てる「聖愛一路」の精神を貫いた。

音次郎は昭和15年(1940)、77歳で没するが、その後も子どもたちによって、現在の社会福祉法人聖音会(「音」は音次郎から)に事業が引き継がれている。鎌倉には音次郎夫妻の銅像が建っている。

 社会福祉法人聖音会

 こんな足跡を残した音次郎のことは「中村市史」にも書かれてはいるが、いまの地元市民はほとんどが知らない。残念なことだ。

地元の児童養護施設・若草園(下田)は、かつて経営が厳しかった時、鎌倉保育園からの支援を受けたことがあり、いまも厚い交流をしている。こうしたことから、音次郎生誕150年を記念して、市民にも広く音次郎のことを知ってもらおうと今回の講演会を企画した。

 いま、本市では、幸徳秋水と樋口真吉(幕末・土佐勤王党)の2人を地元の偉人の両翼として、観光などにもつなげようと、パンフなどもつくり売り出している。

音次郎の生きざまは、慈悲・博愛であり、秋水と共通するものがある。実際、音次郎は事業が困窮していた明治30年代、「萬朝報」に堺利彦を訪ね、記事にしてもらっている。そのさい、同僚記者であった同郷の後輩・秋水とも接触している。

 講演会には、神奈川県から、音次郎の孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)ら一族、および現事業関係者、十数名も参加され、挨拶をされていた。講演終了後は、音次郎の生家(宮村家)、記念碑、墓(鎌倉と分骨)などを案内。私も同行させてもらった。

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私も地元にいながら、菩提寺裏の四万十川を眼下に見下ろす山の上にある墓を訪ねるのは初めてであった。
墓前では、キリストの讃美歌を歌う厳粛な礼拝が行なわれた。


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夜は「ホワイトキャッスル」で、若草園、関係市民らとの交流会「おきゃく」も開かれた。
みんさん、皿鉢料理をめずらしがっておられた。
和気あいあいの交流が図られた。これぞ人の縁、地の縁だと思う。

若草園では、佐竹音次郎を紹介するリーフレットをつくり、教育委員会から市内小中学生全員に配ってもらうことにしている。

秋水、真吉だけではない。
佐竹音次郎を、地元の偉人として、もっと多くの人に知ってもらいたいと思う。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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