四万十川 遭難碑

四万十川橋(通称・赤鉄橋)は大正15年(1926年)に完成。
当時、延長438m、幅員5.5m、四国で最長であった。

橋ができる前の大正4年、増水のあと、ここの渡し舟の転覆事故があった。舟には、実習で中村側から具同の桑畑に向かう、幡多実科高等女学校の生徒らが乗っており、11人が亡くなった。

犠牲者の捜索には、地区民などが総出であたり、当時、旧制中村中学の生徒であった、のちの小説家・上林暁もかけつけた。事故を機に、架橋運動が盛り上がった。

この水難事故の慰霊碑が鉄橋から少し下流左岸の岩崎の道路端に建っている。平成3年(1991年)、女性徒たちの後輩にあたる、中村高校同窓会が建てたもの。
隣には、詩人・大江満雄の詩碑もある。水難犠牲者をうたったもので、地元有志によって、同時に建てられた。

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  おもふほど おもふほどに
  ふるさとは雨と嵐
  山峡の水もくるふて流れあふれる
  豪雨の日
  天のはげしきを
  おもふほど おもふほどに
  ふるさとの雨の降る日は美(かな)し。
  四万十川の水にごる日はかなし。

 大江満雄は明治39年(1906年)、いまの宿毛市生まれだが、事故当時(9歳)は中村に住んでいた。15歳の時、父に連れられ上京。貧苦の中、キリスト教洗礼を受け、石版工として働きながら、プロレタリア文学運動にも加わり、獄中生活も送った。

戦後は、宿毛高校校歌なども作詞。多くの詩集を残しており、四万十川遭難の詩は、『日本海流』(1943年)におさめられている。

詩碑の除幕式には、東京から杖をついて参列し、ふるさとに自分の詩碑ができたことへの感激の涙を流しながら、お礼の挨拶をした。その年(1991年)、85歳で亡くなった。

中村のまちは、ぐるり一周、堤防で囲まれており、私はここをジョギングコースにしている。走っているうちに、二つの碑に気付いた。周りに植えられた木々が大きくなったため、その陰に隠れて、わかりづらい場所になっていた。

私は詩人・大江満雄の名前はきいたことがあったが、この碑をみてから初めて詳しく知った。市民もほとんど知らないと思う。大正4年の水難事故のことも・・・また、二つの碑の存在も。

小さな公園のようになっているこの一角は、いま誰も管理をしておらず、放置されたままになっているようだ。せめて、木々の剪定をするなどすれば、道ゆく人や車からも気づきやすい。建立当時の関係者などと、相談してみたい。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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