幸徳家の墓

 管野須賀子生誕133年の集いに参加した翌日(6月8日)、大阪市西区本田に、浄土宗竹林寺を訪ねた。かつて、幸徳秋水の先祖の墓あった寺である。私は以前大阪に住んでいたが、この寺ははじめて。大阪ドーム球場の近くにあった。

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幸徳家のルーツは京都の公家で、陰陽師であったとされている。その頃の姓は幸徳井(かでい)。その後、江戸初期に大阪に移り、幸徳となった。その初代から5代までの墓(寛保2年、1742年建立)がこの寺にあった。当時は医業をいとなんでいたとされる。6代目が、土佐中村に移り、薬種商(俵屋)を始めた。中村では結構な大店(おおだな)であり、秋水は、ここの10代目の跡取り息子として、明治4年に生まれた。

大阪に先祖の墓があったことは秋水も知っていたようで、妻と一緒に探し歩いてやっと見つけたということが、妻(師岡千代子)の回想記(『風々雨々』)に書かれている。この墓は大逆事件後もそのまま放置されていたが、昭和57年(1982)、大阪の支援者グループの協力で中村に移されたのである。

 事前に住職さんに電話をしておいて、案内してもらった。境内は決して広くはなく、やや奥まったところに、その一角はあった。人の骨が粉になったような、白いぱさぱさした土の上に、小さな牡丹の木が一本生えていた。一緒に手を合わせた。

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周り見ると、黒ずんでヒビが入ったり、表面がはがれた墓石が目につく。住職さんが言うには、ここらあたりは、寺も、何もかも、昭和20年4月の大阪大空襲で焼きつくされた。その炎の熱で、黒ずみ、割れているのだ。硬い石ほど火に弱いそうだ。

大きな無縁塔が建っていた。そこには約300人の遊女が葬られている。寺の前には松島遊郭があった。東京でいえば吉原。遊女が逃げないように塀で囲まれていた。炎に呑み込まれ、阿鼻叫喚の地獄だったろう。遊郭跡は、いまは公園に変わっている。

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寺は慶安2年(1649)に建てられた、このあたりでは由緒ある古刹。江戸幕府表敬訪問の朝鮮通信使の宿舎にもなっており、ここで客死した一人(金漢重)の墓もあった。また、森繁久弥祖先の墓(阿波屋)も。秋水先祖も医師として、それなりの家柄だったのだろう。

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 中村に戻ってから、正福寺に行ってみた。これまで気づかなかったが、二列に並んだ、幸徳一族の墓の一番手前に、その墓石があった。大阪大空襲の傷跡、黒ずんで、上半分がはがれ、下半分に「幸徳梅林建立」の文字が見える。

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正福寺には、いまは住職もいない。お堂もない。山の木が繁って、じめじめした日蔭となっており、いまの季節は、藪蚊も飛んでいる。

幸徳一族の末裔はいま中村にはいない。墓は四万十市が史跡として管理し、秋水を顕彰する会のメンバーが掃除などを交代でつとめている。3年前の、秋水刑死100周年事業で、案内看板をつくりかえるなど、周辺を一部整備したが、まだまだ不十分だ。
 
 毎年1月24日の命日には、秋水墓前祭をおこなっている。また、全国から、人知れず訪れる方も多く、ノートにメッセージも残されている。時代の先覚者にふさわしい「聖地」として、より抜本的な整備が必要だと思う。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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